小幡敏の日記

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加憲反対を唱える保守派へ

憲法改正について、加憲反対を言われる方がおります。

 

勿論、あんなものは戦後の欺瞞というか、まぁ戦後レジームの完成しか意味せず、あの醜い憲法の追認にしかならない、という言い分はわかります。

 

私もそう思います。

 

ただ、憲法を変える為のモメンタムというものを考えたとき、これにはその障害の除去と主体性の回復ないし涵養という二つの方向が必要となるでしょう。

 

障害の除去というのは、これは棚ぼた的というか、75年間の怠慢が幸いして達成されております。

 

米国はもはやこれに関心はさしてありませんし、日本の左派勢力というものはかつてとは比べものにならないほど弱体化しております。

 

しかしながら、もう一つの方はまさにこの怠慢が弛緩を生み、もはや国民は思考能力もその意志も完全に喪失しており、憲法改正ないし制定の必要性を理解出来ないばかりか、その生存への意志さえも稀薄になっています。

 

さぁ、どうしますか。この状況で頭書に述べたような理屈を繰り返すことが得策でしょうか。

 

端的にいいましょう、そんな悠長なことはいうべきではない。私は精神主義者であるとか理想主義者であるとか言われますが、それでもなお、そう思います。

 

日本人というのは何事につけ処女性を大事にするもので、傷のない憲法は如何に醜く、如何に有害なものであれ、どこか神聖視してしまいます。

 

要するに、こいつに傷さえつけてやればいい。そしたら国民はもうこんな憲法ありがあがたがらないようになります。むしろ、俺が傷つけたなら俺のもんだ、となって、生かすなり殺すなり、本来の傍若無人ぶりを発揮してくれることでしょう。

 

ですから私は、加憲が如何に愚策であれ、これをせよと考えます。

 

それをした上で、傷物の憲法さまを放逐してやればいい。それが目指すべき憲法制定への道であろうと、その様に思っています。