コロナ騒ぎを経て、なんとなくではありますが、安倍晋三という存在がかえって大きくなってはいませんか。
親安倍派というのはもはやかなり少なくなっていますが、政治に対する態度が凡そこの安倍晋三に対する態度で示される傾向が強い。
これはまあ、総理ですから、多かれ少なかれ、そういうこともありましょう。
ですが、この時どうも気になるのが、いったいそれは本当に安倍晋三という個人の人柄や能力、政治家としての資質や政策の当否でもって判断されているのかどうか怪しいということです。
私は別段彼の肩を持つわけではありませんが、国民のほとんどは総理の政策など、ほとんど興味がないのではないか。
所謂アンチ安倍というのも、それは単に反権力ということしか意味していない。
そして、更に深刻なのは、このとき彼らは反権力ではなく、疎権力ないし遠権力でしかないということです。
これは経験的な実感ですが、親安倍派というのは、桜を見る会に招待されたとか、そういうことに顕著ですが、安倍晋三という人に自分が近くにあると感じ、それ故に自分が権力の内奥にアクセスしているのだというような貧乏くさい虚栄心をくすぐられているだけであることがあまりにも多い。
そして、このことは逆もまた然りで、反安倍派の人間はこういったことに与れないもののひがみというか妬みであるにすぎないことが多い。嫌みを言えば、彼らとてたとえば桜を見る会に招待されていれば喜びいさんで飛んでゆき、その醜い優越感に浸っていたのだろうと思われるということです。
これは単に最近の傾向というより、日本人の性向といった方がよく、結局は功利的にしか物事を判断できない田舎もの根性であるというべきでしょう。
そして、そんな頼りない政治感覚しかもたない日本人が民主制をもったらどうなるか、そういう悲劇がいままさにこの国で演じられているわけです。
私は安倍晋三というひとを別に憎みません。言うなれば彼も日本国民の被害者なのですから。