小幡敏の日記

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反省シーズン到来

8月に入りました。

 

今年もやって参りました、反省シーズン。

これから広島長崎原爆投下日から終戦記念日にかけて、日本では平和でよかったねの国民大反省会ごっこが始まります。

 

ただちゃかしても仕方がありませんが、一つだけ事実を指摘しておきましょう。

単純なことで構いません、日本国民の内、原爆の投下日及びその死者数、並びに戦争による犠牲者総数、ないしおおまかな戦史的事実について一体どれだけ承知しているのでしょうか。

 

断っておきますが、私は別に意地悪を言っているつもりはない。私は軍事オタクでもなんでもないのであり、非軍事分野と軍事分野での知識に偏りはほとんどありません。

 

それはともかく、毎年毎年戦争反省会をやっておきながら、そして平和への思いを新たにしているはずの国民諸賢が、戦争により命を奪われた者の数も知らない、戦争がどのような経過を辿ったのかもしらない、当時の戦争のなされ方や、軍隊組織における国民の関与の仕方、或いは銃後の生活、そんなことはなんにもしらない、そんなことで一体何を反省し、何を祈ったというつもりなのか。

 

月並みなことをいえば、真に戦争を反省するのであれば、当然戦争が引き起こされた原因、それに思いを致さねばならないでしょう。そして、戦争が一体如何なる様相となり、なぜあのような結末を迎えたのか。それについて最低限の知識がなければ、それは戦争と向き合ったことにはならないはずです。

 

ところが国民の大半はこんなことには何の興味もしめさない。だから平気で平和でよかったなどとバカを言える。

 

はっきりさせておきますが、先の大戦は軍部が引き起こし、国民はそれにつき合わされたなどという馬鹿げた構図ではまるでない。軍部などというものが日本の外部にあって、それが日本国民を引きずり回すなどということがあったのではないのです。

 

軍部とて国民の一部に過ぎない。それが増長したのは、一方ではその利用をはかった政治であり、もう一方では軍に喝采を送っていた国民でしょう。もちろん、軍部が免責されるわけではなく、その無思想性や戦略性の欠如は咎められて然るべきですが、この化け物を生み出したものはむしろ我々自身の欠陥であることを知らねばならない。そうでなければ反省したことにはなりません。

 

毎年毎年、性懲りもなくよくやります。私はかつて、いわゆる戦後日本の平和主義者を憎んでおりましたが、もはや哀れんでおります。

 

それは皮肉ではない。本当に心配しておるのです。かつて日本人はバカの一つ覚えで平和平和といっておればよかった。ところが、今や急変する情勢がこれを許さなくしつつある。そしてこれが何かのきっかけに逆転したばあい、日本国民はまた無節操な革命的変貌を遂げることでしょう。我々は一夜にして荒唐無稽な平和主義者から好戦的な軍国主義者に変わりうる、そういう軽薄な国民です。

 

私は現状に不満を持ち、軍事の強化を求めますが、再びこの国を破滅に追いやるようなヒステリックな変化は望んでおりません。しかしながら、このままいけばどこかでこれが起こる。この国の国民はそういう変化しか出来ないのかもしれません。

 

それを避けなければならないからこそ、私は平和主義者たちに求める。もうバカはおよしなさい。まともになりなさい。荒唐無稽な平和主義はかえって危険な反動を引き起こしかねない。

 

国民にも、自衛官にも、節度をしらぬ馬鹿者は沢山おります。こいつらに主導権を渡しては惨禍の再来にしかならない。そうしないためには、小異を捨てて大同につき、まともな軍隊組織を備え、専守防衛を堅持した形で国の形を築くしかないのです。

 

火事場泥棒的急進的改革はろくなことにならない。今成すべきは、国家の独立と自律性の確保に向けた冷静な努力、ただそれだけのはずではないか。それに同意できないものは、私に言わせれば左右を問わず、国家国民を滅ぼす国賊でしょう。