小幡敏の日記

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原爆祭

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200809-00000024-mai-soci

 

また例のごとく何のためだかわからないお祭り騒ぎをやっております。

私は実際の被爆者やその遺族を貶める気はありませんが、彼らにはその反核兵器運動が一体如何なる意味をもち、またどのように利用されているのかわからないのか。

 

そもそも私には核兵器廃絶という目標自体がもはや合理性を持たないのではないかと思われる。

 

当たり前のことを確認すれば、

核兵器が存在すること』

核兵器が使用されること』

を比べれば、後者を恐れることは当然であり、後者の阻止のために前者を受け入れる必要があれば、その覚悟くらいは持つべきでしょう。

 

しかしながら、所謂日本の反戦主義者や反核兵器主義者は核兵器自体を絶対悪に仕立て上げ、この存在自体を決して認めようとしない。それでは政治的な推進力を失うことは当然であって、もはや核兵器の増大及び使用される蓋然性の拡大を認めているに等しいとさえいいたくなる。

 

ケネス・ウォルツなどの議論を持ち出すまでもなく、核兵器はむしろまともな国の間で拡散される方がむしろその使用可能性の逓減の面で有効なのであって、強国によって独占されている現状こそが喫緊の課題である。

 

核兵器などという悪魔が使われないことを願うなら、その廃絶の手前で限定的拡散を求めるべきであることは、正気の人間であればだれにもわかるはずではないか。

 

核兵器はもはや、所詮北朝鮮にすら製造できる旧式兵器なのである。これの廃絶などなし得るはずがない。世界には常にこれに手を伸ばす勢力がいるし、これを世界同時的に撲滅することなど出来るはずがない。

 

空想的平和主義者は平和の実際的実現に些かの責任感も有さないことはこのことからも明白である。

 

今日本人がすべきは核兵器保有のための運動である。核兵器は絶対悪などではない。そんなことはわかりきっているではないか。絶対悪などというものがあるのであれば、それは人間であって、兵器それ自体ではないのである。