小幡敏の日記

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緊急事態宣言を喜ぶこの国の末期症状

緊急事態宣言が延期されるかどうかでまたバカ騒ぎを始めたが、この騒動も早一年になる。

 

思えば、この緊急事態宣言という名前が出始めた頃から思っているが、どうも国民はこの奇形の闘争に、かつて生物として備えていた生存への意志、そして現実との闘争の幻影を重ねて半ばそれに興じてはいまいか。

 

戦後我々はその闘争から必死に逃げてきた。もはやそんなものはないかのように振る舞いさえしてきた。だが、それは必要であるとともに、生きる条件でもあり、本来愉しみですらあることを忘れていた。

 

そこにこの感染症がやってきた。好みを現実に持ち寄ることを禁じ、常に現実に合わせることをもって現実に拝きすることにより、現実に赦される、現実の方が我々を救ってくれるのだという倒錯に潜在的な不安を抱き続けていた我々は、『現実に働きかけることにより現実が動く、それも感染者数という馬鹿にでもわかる数字によって現実が動いているとの妄想を支える物語』に飛びついた。我々の身体はこの似非闘争をどこかで望んでいたのである。

 

だが、そんなものはそれこそ思い込みなのであり、我々は至当な闘争を引き受けなければならない。

 

重要なのは感染者数でも死者数でも重症化率でも空き病床数でもなく、ただ我々の生存の障害総てを引き受け、社会総体をより健全で幸福な状態に導くことにある。その手段として今の乱痴気騒ぎが至当だというなら、そのようにすればよい。だが、皆いい加減に気づき始めているように、場当たり的な努力の積み重ねは決して民族的、国家的成果は導かない。

 

それが証拠に、コロナの前後で我々の健康状態は、社会経済文化個人、全ての面で劣悪化し、その落差は諸先進国に較べて大きいではないか。

 

こんなことをしているうちに我々は滅びのペースを早めるだけだ。

 

誤解なきように言っておくが、緊急事態宣言を喜ぶというのは、その発出や継続を喜ぶことを言っているのではない。その当否を巡る判断過程や『努力』や抵抗など、ほぼ全ての態度について述べているのである。

 

だからこそ私ははじめから言っている。コロナ騒ぎに対する唯一の脱出路は出来る限りの『無関心』であると。