小幡敏の日記

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日本人の行く先にあるのは曖昧な悲惨と曖昧な滅亡である

昨日仕事で少し六本木にいたもので、六本木交差点のすぐそばにあるカレー屋で昼食をとった。正午を少し廻ったころから一時前までいたが、その間に入った客は私1人という有り様だった。

 

2人いたインド人だかネパール人だかの店員が唯一の客をえらく甲斐甲斐しく扱うものだから、勧められるままにチャイやらラッシーやら飲み、ナンをおかわりし(半分といったら二倍のナンが出てきたのには閉口した)、まあ随分世話になった。

 

あそこじゃ賃料も高いだろうし、早晩潰れるかもしれない。飯倉側のカレー屋も空きテナントになっていた。

 

それはともかく、自衛隊がいかに臆病な組織かということは常々いっているが、富士の麓にある自衛隊戦闘職種のメッカじゃ、今なお営内者は週末外出を認められず、営外者も生活必需品の買い物くらいしか許されないという。

 

まったく馬鹿げた話だ。世間じゃそんな自粛はしとらんではないか。ましてあそこは静岡で、それも人口密集地からかなり離れている。

 

そして、何よりお笑いなのは、そこの司令(日本で随一といってもよい駐屯地の司令は勿論将軍だ)の言い草である。曰わく、「陸幕からでている『行動方針は各地の基準に合わせたものにする』との通達は、『全ての地方の基準』と読み替えるものであり、所在地に縛られずもっとも厳しい基準をとる」と。開いた口がふさがらん。将軍がeachとallの違いもわからんときた。いや、こんな馬鹿な道理を押し通そうとするその厚顔に付き合わされる連中が哀れだ。これに意見したある大隊長は案の定厳しく叱責されたという。

思い出せ、この手の読み替えが先の大戦間いかに日本軍に蔓延り、指揮系統を逸脱した現地判断がいかに軍の統帥を乱したか。(それが軍の統帥を口実にしたのだから恐ろしい話だ)

戦争などではなく、馬鹿な司令官の下らない保身に勇敢にならねばならなかった大隊長に幸あれ。

 

当然だがこういううつけ者は、こんな時ばかり命を守るだなんだと御託を並べて、いざ戦争になれば兵隊の命を簡単に捨てるんだ。そういう将軍を我々は歴史の中で多く見たではないか。

 

あのような馬鹿たれに辛酸を嘗めさせられた我々の父祖が誓ったのは、平和などではなく、あんな馬鹿に殺されないための国造りだ。日本の左右双方にいっておくが、あなたたちがやっているのは、外敵に殺されるか、あの手の馬鹿な身内に殺されるかの違いであって、我々の自由の確保とは何の関わりもない。

 

え、なんだって、そんなことはないだと。

ばかいえ、現に無能な政府に殺されかけているではないか。愚か者が愚か者を担いで自滅することに、一般社会も軍も違いなどない。我々が統治行為を曖昧なままに放置した以上、待ち受けるのは曖昧な悲惨と曖昧な滅亡である。