小幡敏の日記

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国語能力の減衰

私は福田恒存の文章がとにかく好きだ。

このところ通勤電車内で福田の評論を読んでいるが、思わず声に出して笑ってしまい、周囲から気味悪がられる事さえある。

 

そして、私もちょこちょこ文章を書いたりしている手前、福田の文章を研究してみたりするが、まったく、あの秘密はいまだにわからない。

 

なんといっても、福田がかくものには、徹底的に絶望し、すなわち、下水の中を這いずり回っていたことがわかりながらも、じめじめした陰湿なところがまったくない。まるで、下水からあがってきたのに服はからりと乾いているかのようだ。

 

私にはこういう芸当はとてもできない。どうしてもじめじめとした、暗い文章になりがちであり、バランスをとるために殊更励ましたり焚き付けるようなことを言わなければバランスがとれない。

 

だが、福田は違う。悲観的になることと、人に訴えるために明るくなること、それは本来両立しないはずだが、福田の場合はこのどちらも同時に達成している。これはまったく不思議である。

 

しかしながら、この時同時に思うのは、一方でこの福田の天才的な案配を汲み取る人間がどれだけいるかということである。

 

案外、それを読むものは、変に楽観したり、あるいはやたらな絶望をしているようにも思える、

 

これはまったく、我々の国語能力の衰退を意味する。

 

思えば、世間の人の大半は言語能力を決定的に失っている。とはいえ、単純な会話能力の上では私などより遥かに器用なものもいることは事実だ。しかしながら、私がいつも感じているのは、彼らの言語能力というのは単に現象に相応しい反応を引き出しているに過ぎず、すくなくとも対象物に対して自らの常識や感性を持ち込んで自らの感情を整える機能をまったく喪失している。

 

であるから、私は彼らになんの劣等感も抱かない。別に強がるわけではないが、彼らの技術は単に魚屋でねぎる交渉術に過ぎず、我々が目指すべきはむしろ魚の鮮度を見抜く能力であるから。

 

世間の人は残念ながら、値切れることを称えるばかりで、当人も腐れた魚を買わされておきながら、得々とした顔をしている。それはどうしたっておかしいではないか。