小幡敏の日記

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この国では死ぬと精霊になるのか

近所を走っている途中で立ち寄る公園に市が昭和五十年代に建立した戦没者慰霊碑がある。

 

これがどことなく奇妙なのは、碑文の中の文言で、まず戦没者のことを「精霊」と呼んでいる。

私はこうしたことにあまり明るくないから、これが一般的な呼称かどうかは判然としないが、精霊精霊と言われるとやはりどうもしっくりこない。英霊と呼びたくないがために妙な言葉を引っ張り出したのではないかと勘ぐりもする。

 

そうおもわせるのには理由がある。いったい、この碑文の中には戦没者を慰霊する気持ちがどこにも見られないのだ。

 

「精霊たちが愛したこの国は、民主国家として今や世界の一等国になりました」というのは何かの冗談か。

 

あなたがたのいう「精霊」たちが愛したという国と、この汚い国は恐らく一致しないから、文の前半と後半で恐らく意図するところが断絶している。

 

また、その後に続く文など読めたものではなく、ただただ戦後日本人自身が納得するための言い聞かせが繰り返される。

 

平和を守る、平和を守る、悲惨な戦争はもういやだ、平和を、平和を、平和を、、、

 

そりゃ平和も結構だが、それはここでいうべきことではなかろう。これでは慰めているのは戦没者ではなく、戦争に怯える現代人自身に過ぎない。

 

極めつけは最後にある。「精霊たちはこの塔のもとにかえり、永久に眠れ」と。

 

いや、呆れるね。慰霊などと銘打ちながら、手前勝手な繰り言を重ねたと思えば、最後はここで永遠に眠っていろという。

 

そら確かに鎮魂というくらいだから鎮めるという期待があってもよい、が、このように都合のよいことを言ったあとで鎮まれというのでは、それこそ厄介扱いしていると言われても仕方がないだろう。

 

そんなことで鎮まるものか。戦没者たちも慰霊されるというから来てみれば、この有り様である。かえって腹が立とう。いや、祟って出たって文句は言えまい。

 

日本人がしてきたこととは、一事が万事こんな調子だ。本当に英霊たちに寄り添う気などあったことがあるのか。それがあるなら、こんな碑文は生まれぬはずだ。

 

日本人が願う無気力で優しい精霊たちは「まあよいではないか、こいつらもなかなか世知辛い世の中を生きているようだから」と許してくれるのかもしれないが、その中に「俺たちは、こんなことを言われるために死んだのか、許すまじ」と息巻く英霊がいないともかぎらない。

 

そしてそういう英霊がいるかぎり、我々はこれからも呪われた子どもたちであり続ける。