小幡敏の日記

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精神の死後硬直

私はずっと大衆というか、国民の思考パターンに安心してきた。それは愉快でも信頼しているわけでもないが、だいたい国民の平均的な考え方は一定していて、言うなればこちらがそれを見込んで物を考えたり言ったりしても、梯子を外されるようなことはなかった。振り返ればいつもそこには口をぽかんと開けた国民がいた。だからこそ私は国民のために力を尽くそうという気にもなった。

 

だが、最近はそうもいかない。たとえばこの感染症騒ぎで私は、多くの国民はただ周りの目を気にしてマスクをしたり自粛に精を出したりしているものだと考えていた。だから、世論調査などをすれば、当然こんな不条理極まるドタバタ劇にはうんざりしていて、さっさとマスクなど外してうまい空気を吸いたがっているもんだとばかり思っていた。

 

それがどうだ。国民の大半は心底コロナが怖いときた。自粛しないやつはきちがい扱いだ。マスクをしないという、ただそれだけのことが、その人間の公民権を停止させるだけの意味を持つ、そういう恐ろしい時代を国民は嬉々として招き寄せた。

 

表現者の今月号で浜崎洋介氏はウィトゲンシュタインを引いて、精神的痙攣と述べているが、本当だろうか。私にはもうこれは末期をも通り過ぎて、単なる精神の屍を晒しているだけに見える。思考しようとして自由な思考を前に足がすくむこと、惑いのなかに落ち込んで嵌まること、それを精神的痙攣と呼ぶなら、国民が示した、思考の徹底的な拒絶と絶望的なほどの生活感覚の枯渇とは、むしろ精神の死後硬直と呼ぶべきだろう。

 

私にはこの騒ぎの中で国民を同じ人間と見ることをいったんやめた。彼らがどこかでこの騒ぎを振り返って恥じる気持ちが芽生えるとさえ思わない。大の大人がうろたえ、惑ったその姿、それを反省できるとは思わない。

 

臆病が強がりに勝る美徳となった時代に、どうして文化が育つものか。どうして我々が進歩を遂げようか。

 

人間の暮らしなど、強がりくらいにしか意地の見せ所はないんだ。

 

俺たちは貧乏でも前を向いて生きざるを得ない。美しくない顔にくよくよしてもいられない。背が低かろうが、頭が悪かろうか、びっこだろうがめくらだろうが、我々はその事実を背負って、少しでも立派に生きようとしなければならない。

 

そういう強がりを、単なる意地っぱりだと嗤うような臆病者こそが、乞食を見下し、障害者を遠ざけ、自らを卑しくするんだ。

 

強がりのなにが悪い。少しは強がってみろ。中国が台頭した、米国には逆らえない、それがどうした、俺たちはだれの風下にもたちたくねえんだ、国力がかなわん、人口でかなわん、そんな泣き言並べてなんになる。

 

コロナ、ふん、なんだそんなもの、それでなにが悪い。え、妻子待つ家で手を洗ったってそりゃかまわねぇ、よそでアルコール手揉みをやめてくれるならな。

 

福沢諭吉の言葉を使えば、女を買うなら隠れて買え。明け透けにすることがよいことだというのなら、そこらじゅうで屁でもなんでもしてみりゃいい。都合のよいときだけ悪ぶったって、その面には「臆病者」と大書してあるよ。