最近ウクライナの騒ぎに『乗じて』改憲その他の改革を進めてしまう試みを咎める声を聞く。
そうか、ではそういう左翼諸君にとっては、公害を受けて作られる規制も、ひとつの交通事故を契機に高まった飲酒運転の厳罰化も、みなその状況や事件に『乗じて』いるとして小さくなっていなければならぬのか。
それは左翼連中がただ慌てているだけとも言えるし、左翼諸君が馬鹿を重ねてきた結果、しどろもどろになって醜態を晒しているのは今更言うまでもないことだから殊更問題にするのもあほらしい。
むしろ僕は天の邪鬼だからそうとだけは見られない。左翼諸君が言うとおり、世の自称保守派諸氏が、どうにもうれしそうに活気づく様子は、やはり機に『乗ずる』いやらしさを否定できない。
こんなことはずっと言わねばならなかったことだし、今になって必要になったことでもない。
それを今ここで顕在化したように語ること、その気持ちは勿論わかるが、その表情がいかにも卑屈ではないか。
悲しみや怒りならまだいい。だが、どうにも違う。彼らの内に僕は慢心と侮りを見いだす。
そんなことではまた我々は成果をこの手に掴めぬぞ。それでよい、いや、そんなことは意に介さぬという連中と、一体手をとりあえるのか。僕は左翼と同様に御免だと言いたい。