さてさて、安倍晋三氏を撃った某氏の動機が明らかになるにつれ、日本人が安堵する様子が目に付きます。
日本において嫌われる宗教が悪者になってくれて、さぞかし安心したことでしょう。これがもし政治への不満を背景にでもしていたなら、日本人はこれを決して消化できなかったはずだ。いつものように暴力はどうのと与太を並べたに違いないのです。
それはそうと、私が不満なのは、これに乗じてちゃっかり政治不信を表明する輩です。
安倍氏はともかく、政治家は腐っている、国民のために働く政治家は一体どこにいる、国民は今こそ清廉で公僕に相応しい人間を求めている、そのように言います。
何を言うか日本人。私は知っている、日本人は清廉であることなど露も目指していないことを。
私は思います、皆が皆清廉であることなど期待すべくもない、しかしながら、そういう人間がいたならその人を称え、また、それに連なる国民として、少しでもそうあろうと努力すべきだと。
しかしながら、私はいつだってそういう思いを他ならぬ日本人の手によって妨げられてきた。私は不完全ながらも、少しでも正直に、少しでも身綺麗に生きようとした。然るに、それを日本人諸君はどう扱ったか。彼らは口を揃えて言った、なに、真面目に生きるのも気が滅入る、もっと肩の力を抜いて醜いものにも理解を示せと。
まるで正直に生きることが義理人情が分からぬとでもいいたいかのように。
全く、堕落とはこのことではないか。彼らにとっては、女を辱め、恥を恥とも思わぬやり方こそが一人前の大人の流儀らしい。
そんなものは願い下げである。一ついえることは、斯様に自堕落な国民に相応しいのは、同様に自堕落な政治家であり、無為無策の政治であるということだ。
嘘をつかず、ただ公益を思って生きることさえ疎ましく思うのが日本人であり、そんな自堕落な民族は救われなくとも当然ではないか。