小幡敏の日記

評論を書いております。ご連絡はobata.tr6★gmail.comまで。(☆を@に))

悪口の作法

作法などというほど大げさな話ではない。

僕は外見や生まれついたものをダシに人の悪口を言う癖がある。

これは褒められたもんでもないが、ちょっと堂に入ったところもあって、立て板に水とばかり、いくらでも悪口が湧いてくるし、実際に口に出してもいる。

 

有り難いことに、僕の周りの連中はこれを笑って聞いてくれる。はじめのうちは悪しざまな表現に戸惑っているが、実際そうなのだから、慣れてくれば一緒になって笑っている。妙チクリンなやつがやってくれば、やぁ次はこれに何と言うかと期待してこっちを見てくる奴さえある。

 

僕の方はなんで自分ばかり汚れ役を、と思わないでもないが、元々言わずにゃおられないタチだから、結局はご期待に応えてひとつふたつは茶化しておくのである。

 

しかるに、こういう環境は僥倖なんであって、日本じゃ外見や生れつきの特徴の類いをヤイの言うのはタブーである。

なんなら、うちのお袋なんかはこの一派の筆頭で、僕がフザけた禿げをやっつけようが、様子のおかしい気狂いの真似をしようが、すかさず『生れついて変えられないことを言うのはよしなさい』と、こうくる。

 

そういえば小学4年の時、今と同様に悪口を吐いていたら、同級の女子生徒から『変えられないものを悪くいっちゃだめなんだよ』と絡まれ、何を貴様と激昂したのを覚えている。『だめなんだよ』とはなんだ、だめかどうかくらいてめえで決めやがれと、そのときはそう思った。

 

その時から思いは変わらない。何故変えられないということが悪口の差支えにならねばならぬのか、そこのところが釈然としないのだ。

 

変えられんのだから、むしろ構わないではないか。そいつのせいではないのだから、いくら言われようがご当人は痛痒も感じなくてよい。(もっとも、僕とて滅多なことでは本人に向かって言うわけではないが)

 

だが、変えられるものならどうか。変えられるのにもかかわらず、悪口の対象となるものを抱え続けているのである。それはそいつの明白な落ち度であり、言うなれば責められても仕方がない弱点である。場合によっては、お天道様の下で歩くべきじゃないくらいのもんである。

 

それを抉るのが良くて、変えようもない悪条件を笑うのが悪いか。デブはよくて、ハゲは悪いか。ケチはよくて、片輪は悪いか。

 

僕なら卑怯者と罵られるより、うすのろと笑われたい。さもしいと蔑まれるより、愚鈍の嘲りを受けたい。

 

あいや、そもそも悪口なんて言わねばよろしいと、そうこられちゃ叶いませんが、そんならまあ、僕はようよう口を開けなくなって、僕の周りの連中は退屈するでしょうが、それでよいなら良いでしょう。僕の方は口をもぐもぐさせてりゃそれでよい。

 

たちの悪い悪口とは、それを言うことで自分が優越感を得たり、相手の評判を貶めたり、座興以上の意味を持たせたそれである。

 

思えば昔、ビートたけし綿貫民輔を指して、『起き上がったコオロギみてぇだ』と言っているのを聞いて大変感心して、幼心に、こういうことが言えるようになりたいと憧れたものだが、たけしの域には程遠い。

 

時代はなかなか険しいが、めげずに精進したい。

 

 

肉弾

私には七歳と五歳の子があって、順調なら今年の秋には三人目がこれに加わります。

 

上の子は小学二年生ですから随分利口になっていて、この間食卓でこういう会話がありました。

 

娘:とと(そろそろ呼び方も進歩させねば)はどんな曲が好きなの

私:軍歌か歌謡曲だな

娘:軍歌ってなに

私:軍隊とか戦争の歌だよ

娘:たとえばどんなのが好き?

私:暁に祈る、歩兵の本領、異国の丘、若鷲の歌、戦友、ラバウル小唄、出征兵士を送る歌、とか、まあいろいろ

娘:どんなのか聞かせて

私:よしきた、万朶の桜かえーりのいろー…、と、こんなのよ。これは陸軍士官学校といって、昔の軍人を育てる学校の卒業生が歌うのを収録したやつだから、本当の軍人が歌ってるんだよ

娘:でもとと自衛隊にいたんだから、ととが歌っても軍人が歌ったことになるでしょ

私:いやしかし、自衛隊は軍隊じゃないから。戦争も想定されておらんし

娘:じゃあなんで戦車とかあるの。戦闘機もあるじゃん。とと訓練行ってたけど、訓練て何かあったときの為にやるものでしょ。学校の避難訓練地震が起きた時に逃げるため、じゃあ自衛隊の訓練はなんのため?戦争で戦わないなら訓練するだけ無駄じゃない!

私:(ああ、娘よ…!)

 

出来過ぎのようですが、本当にこういうテンポで会話があります。脚色もゼロ、子供だってこれくらいの理屈はつくんですな。

七歳でわかる矛盾を抱えた組織が戦争を戦い抜けるというなら、地球というのも随分生きやすくなったものです。宇宙戦争でもおこらぬ限り、安心してよさそうだ。

 

そういえばこの前、空自の何処かの部隊がパワハラ是正のために、階級を取り払って司令から下っ端まであだ名で呼び合い、フラットにレクリエーションなどをやる取り組みを始めたというのを見ました。

 

イナとかよっちゃんとか、そんなことで呼び合いながら和気藹々、親睦融和に努めているわけですが、まぁこんな連中を薄皮一枚に隔てて中露と対峙するのが不安でない、怖くないというのであれば、そうすればいい。日本人は随分肝っ玉の据わった民族になったということです。

私は鉄拳飛び交う猛訓練の様を見せられた方が遥かに安心しますがね。

 

それはそうと、今桜井忠温の『肉弾』を読み返しておりますが、『此一戦』もそうですが、この頃(日露戦役)の戦争文学は言い訳がましいところがなくて実にいい。現代の戦争モノはおよそ弁解じみたものばかりで、まともなことを言っていようがどこか後ろ暗さが残りますが、『肉弾』なんかは朗らか、快活、とにかく胸のすくような書きっぷりでなんだか安心すらします。

 

そういえば、来島恒喜に爆弾を投げつけられ、脚を吹き飛ばされた大隈重信は、来島のことを天晴な男だといい、メソメソ悩んで華厳ノ滝に飛び込むような女々しいやつより余程気持ちの良いやつだと言っておりましたが、こういう気風というか、伸び伸びした人間の溌剌なところが遺憾なく書き付けられておるところが実に良いわけです。(なお、来島はその場で見事自決しております)

 

現代の日本人が戦争のことを考えようとすると、自ずと大東亜戦争に向き合うことになり、それははなから戦後八十年間、積み上げられ、塗りたくられた反戦平和のベールを通して眺めなければならないことを意味しますから、自ずと奇形にならざるを得ません。

 

そのことをどうこう言っても始まりませんが、こと戦いないし戦争というものを考えるには、これはあまりにも不都合です。戦いの性格というのが一面的にしか見えないのはやはりまずい。結論が戦争反対というのを止めはしませんし、むしろ常識的な見解と思いますが、戦いの正体を一切見ずにそれを言うのは、いささか不用意と言いますか、頼りない意見形成に思えてなりません。

 

だからこそ、戦争に誠実に向き合いたい者は、少なくともいったんは、戦後の手垢に塗れる前の戦争を見分してくるべきではないかと思います。その意味で、『肉弾』は格好の教材です。

 

文章として優れていることはいうまでもありませんが、何より、読んでいて、ああ、なるほどこれが健康な姿だと納得させる場面が数多く描かれており、それは現代日本人にとって遥かに忘れ去られた貴重な人間の生き方でありましょう。

 

国書刊行会がすばらしい装丁で再刊されたものもありますし、入手も容易です。是非どうぞ。

読み手発見

これまで二冊本を出して、批判的な投書やメールばかりが届くわけですが、これらは主に一冊目宛で、昨夏に出した二冊目は完全な無風にあります。

 

私にとって一冊目は、正直な書き方をしたものではありますが、何分愛想も素っ気もなく、また内容も攻撃的かつ反社会的で非常識ですらあるので、これに噛みついてこられても、あぁまたか…、と思うだけです。

 

そしてこうした批判は言うなれば、戦場から送った報告に対して、やれ 『報告形式が整ってない』(文体が気持ち悪い、差別語が多い、女性蔑視だ)とか、やれ『敵情判断の根拠が弱い』(お前は五年しか自衛隊にいない、小隊長しかやってない、軍事知識に乏しい)とか、そんな性格のもので埋められているわけですから、こちらにしてみれば、『後方でぬくぬくしやがって、そんならてめえの目で見てこい』としか思わんわけです。だから虚しさや寂しさ、或いは腹立ちはあっても、基礎が揺らぐようなことはありません(別に強がっているわけではなく、噛まれれば噛まれた分は痛いので…、せめて『真面目に』噛んでください)。

 

しかし、これも出して何年か経ちますから、さすがに最近じゃ刺されることもほとんどありません。そして、二冊目にまったく反応がないと、どこかで噛みつかれるのを期待してしまうから不思議なものです。無視されるというのがやはり一番しんどい。

 

そんなおり、たまたまあの養老孟司氏が拙著に言及されているのを見つけました。

 

https://colorful.futabanet.jp/articles/-/2450

 

サラリと読まれたことが実にサラリと書かれておりますが…笑、いずれにしても、私のような無名の書き手の本を読んで下さったのは有り難い限り。著者としては批判でもなんでも、特に戦前生まれの養老氏からは頂きたいところですが、それは贅沢というものなんでしょう。目を通してもらったことで満足しておくことにします。ありがとうございました。

 

それと、全く関係ありませんが、先日会津若松に行きました。あれほど血みどろの記憶に覆われた街も少ないですが、私は大変気に入りました。車で福島はややしんどいですが、また出張ります。


f:id:isobe-seisen:20240327180122j:image

いっぺいちゃんと自衛隊

僕は野球が好きで、野球のニュースは見るもんだからいやでもいっぺいちゃんのやらかしが目に入ります。

 

これは後出しジャンケンのようでみっともないですが、かねてからこいつはいつかやらかすぞと言っていました。家人しか証人はありませんが、これは本当です。

 

そら、ギャンブルで借金拵えるとか、そんなことまで予想していたわけではありませんが、僕がかねて心配していたのは、通訳という所詮は渉外係に過ぎない裏方稼業のいっぺいちゃんが、大谷翔平の隣に侍り、能力外見その他あらゆる点において劣位にあり続ける(英語力なんていうのは飯を食うのが早いとか、人より尻が小さいとか、それくらいの自信にしかなるまい)のは、まともな金玉だったら耐えられないだろうなってことです。

 

別に通訳業を人間ポケトークといって馬鹿にするわけではないですが(外交官の気位がやたらと高いのも、ちょっと気の利いたポケトークである自覚がおありなのかも)、通訳業に限らず、裏方業務は裏方になければならない、これは道理です。これを弁えずに、さも大谷翔平の相棒であるかのように表舞台に立たせてしまえば、そら普通の神経なら耐えられませんよ、必要以上に惨めな心地になるでしょう。

 

日本人は自分の平凡な境遇を慰めるためか、こういう裏方をやたらと持ち上げる傾向があります。いっぺいちゃんなんて、うちのおふくろもあの人はすごいらしい、ただの通訳じゃないんだって、と言っていたし、世間じゃ報酬などまで詮索して持ち上げていました。

 

それがいまじゃ、大谷に影響がなければいいが、通訳なんて他にいくらでもいるから大谷は切り替えてほしい、と手のひら返しも鮮やかです。

 

だからいわんこっちゃない。はなからいっぺいちゃんなんて大谷の付属物か、それ以下の存在でしかなかったんだ。誰も彼に大谷のような特別で代替不能な価値なんて見出していなかったんだ。

それを持ち上げれば、本人が一番そのギャップに苦しむことは明らかではないか。いっぺいちゃんがそれを苦にして賭博に溺れたかは知らんですが、僕にはそういう気持ちもわからんではない。人間の価値は、少なくとも世間にとっての価値には、いやでも高低があるものです。それだけは認めてやらねば、哀れないっぺいちゃんはまた次々に出る。いっぺいちゃんが万一命を絶つようなことがあれば、それは彼をおもちゃにしたマスコミと、そんな馬鹿げた評価を受け入れた大衆の罪です。

 

 

さて、こんな後出しジャンケンまがいのことを言ったのは、何もいっぺいちゃんに特別の関心があるわけではない。いっぺいちゃんはなかなか面白いから明星食品かどこかがCMに使うか(一度手出したら止まらないぜーとでも言わせておけ)、大王製紙の井川何某と組んで何かやってくれればいい。大谷の契約金よろしく、1000億でも借金こさえりゃ、いっぺいちゃんも負の大谷翔平として立派にスーパースターと肩を並べられるわけです。

 

それはそうと、僕が言いたいのは、今回の構図が自衛隊にも当てはまるということです。

 

惨めな境遇、地位にありながら、自衛隊さんありがとう、自衛官カッコいい、自衛隊スゴイ、と言われれば、日頃劣等感に苛まれている自衛隊自衛官は、容易にいっぺい化すること請け合いです。

 

できねえことも出来るといったり、アメちゃんから馬鹿高い武器を買ったり、無理して共同訓練を詰め込んだりするのは、まぁいっぺいが賭博に突っ込んだ気分と同じだと思えばわかりやすい。

 

自衛隊大谷翔平側になれれば何よりだが、そうでなくともいっぺい化するのはやはりまずい。せめて藤浪晋太郎くらいにはなってもらわなくちゃ困る(僕は藤浪、だいぶ好きです)。

 

それはともかく、日本人は性懲りも無くまた第二のいっぺいちゃんを作り出すでしょうが、自衛隊はなんとか救い出さねばなりません。

 

そのためには、まずは通訳をある種の人間ポケトークであると認識するのと同様、自衛隊は不具の組織であると認めることです。

 

あいや、職業に貴賎なし、それはそうでございましょう。そういうことでも大いに結構。僕は医者や弁護士よりも、大工左官や呑百姓の方に頭を下げます。

 

ただ一点、自衛隊は賎業だと、そういう扱いをするのはいつだって国民様の方ではなかったですかね。そのことだけは、忘れるわけにはいかないのです。僕は決して忘れやしません。

またも北海道


f:id:isobe-seisen:20240129003103j:image
f:id:isobe-seisen:20240129003125j:image
2泊3日で北海道に行ってきました。自衛隊を辞めた同期2人が居ましたが、まあ楽しいこと。我々の会話は人が聞いたら馬鹿話にしか聞こえないのでしょうが、いやいや、馬鹿話にも気の利いたもんとそうでないのがあるんです。

 

そこでいくと、都会の連中はこれがまったくできません。インテリはとくにそう。東京に帰ってきてまだ数時間ですが、もう明日からのことを思ってうんざりしています。

 

明日からまたまともに馬鹿話も出来ない東京を生きなければならないと思うといやはや、頭が痛い。

 

また北海道(上玉の自衛官がいるところ?)に行けることを願います。

自衛官の靖國参拝

陸自の幹部が実質的に集団参拝をしたということでやや騒がれています。

これを当然のこととして擁護する者、また例のごとく宗教問題にして批判する者、両者あるわけですが、私として一つ言っておくことがあるとすれば、もし仮に自衛隊軍国主義復活の気配を感じている者があるとすれば、それは見当違いも甚だしい、恥ずかしいほどに現実を見誤った杞憂だということです。

 

私は断言出来ますが、少なくとも現在において、自衛隊の中に、それももっとも『野蛮』とされる陸自の中にも、軍国主義なんてものに居場所はありません。

 

それは、健全に保たれている、というのではない。単にノンポリの物質主義者達で占められているのだということであって、私などは毎年靖國にお参りしているものですから、そんなやつは『変わり者』であり、なんなら『面倒な人』で、いわば鼻つまみです。

 

これは私が身を以て経験したのだから間違いない。もちろん、たまに妙な精神家というのはいるわけですが、それはあくまでも例外的な存在です。

 

もっとも、世間の人が持つ印象とは異なり、戦前の軍隊においてもいわゆる精神主義者はある種の変人であり、敬して遠ざけられる、場合によっては今と変わらぬ鼻つまみでもあったわけですが、一度彼らが時を得ると、普段ノンポリ的であった連中はこの暴走に抗うことが出来ず、伝統とも関わりのない、自家発電的精神主義への驀進に巻き込まれていったわけです。

 

してみれば、我々はこの滅びの運動が始まらぬよう、また、始まった時に水をさせるだけの思想なり生き方を準備することで民族精神の堤を築かねばならぬわけですが、冒頭述べたような下らない議論に終始して、いっこうこれに取り組まない。

 

そんなことではまた民族廃滅の悲惨を招き寄せるだけでしょう。戦争を反省するなどということは、戦後の日本人一同がいうほど簡単なことではない。猜疑、熱狂、錯乱、強欲、小心、そうした全ての人間の弱さに抵抗する闘争の中で、血と汗を流して築かねばならないものであります。

 

そういう覚悟で一から始めなければならぬというところに、戦後八十年近く経っても、我々日本人は留まり続けている。その怠慢のツケを今年、いや、今日このときに払わされたとしても、一体誰が神を呪うことが出来るか。仏はないと言えるか。

 

 

 

理解できない国語ってなんなんだ

丁度世間ではセンター試験の時期だからつまらんことを思い出したが、僕は現代文だと論説文が不得意で、センター試験レベルでさえ結構誤答があったりした。

 

得意なやつに言わせれば、答えなんてこれしかないだろ、ということらしいが、こちらに言わせてもらえば、こんなもんどれでもいいだろと、そういうわけだ。

 

そういえば坂口安吾が、『世に人はあっても人はなし』なんてつまらんことをいうなら、世間に人間は多くいるが有為の人材は少ないのだと、そう端的に言えばよいではないか、と言っていたが、僕もいつもそのように考えていた。世間の文章にはくだらないレトリックが多過ぎて読めたものではない。とても付き合ってられないと思った。修飾するならするで、もとより美しいか分かりやすいか、気が利いているか、いずれにしてもなにかしらより優れた点をもたねば道理がとおらぬが、ほとんどのそれは、単にもっともらしく、また何か深遠なことが語られているような様子を演出にしかなっておらず、そんなものはいらんと苛々させられる。

 

だいたい、論説文なら書き手が何かしらのものを直接伝えるために書いているのだから、それが伝わらない時点で何かが間違ってるではないかと思う。そら文章が下手なんじゃないかと。

 

勿論、誰でも正解してしまっては困るから、適当に小難しいものを選んでいることからすれば出題者が悪いともいえるが、僕に言わせれば、そんな回りくどい勿体振った文章を書いたやつが一番の悪党だと思う。大したことを言っていないのだから、せめてわかりやすく書きやがれと。

 

もっとも、文章は分かりやすさだけが全てではない。たとえ一般の読者には難解であっても、書かれた対象自体が難解であれば仕方がないのだし、美しい文章にも、味のある文章にも、また格調高い文章にも、分かりやすさを犠牲にする資格を認めてやりたい。

 

そこが問題の肝になっていれば一向構わないが、少なくとも僕が触れてきた現代文の問題文は、その多くが分かりづらいだけのつまらん文章だった。あの手のものは、読者を徒に困らせるだけだから足蹴にしておいたほうがいい。

 

そして、世の書き手には是非とも分かりやすさを重視してもらいたいと希望する。

ただ、強調したいのは、僕は読者のレベルに合わせろといいたいのではないということだ。国語の秩序と格式をより高いところに持っていきたいのであれば、不真面目で不勉強な読者のいくらかが置いてけぼりをくったって、そら必要な犠牲だと言わざるを得まい。

 

それが、無闇矢鱈に、内容の不足を不要な演出で埋め合わせるものでなければ、どんどんやって構わない。それでもなお分かりやすいと言える文章というものが、きっとあるのだと僕は信じる。