小幡敏の日記

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議論や対話が必要だというなら

まずやってみせてくれ、その議論というやつを。

 

私などが対話を拒否するとそれだけでもう市民権を剥奪されるような扱いを受けるが(市民権なんぞもらった覚えはないものの)、私は何もその場限りに生きているわけでなければ、その場に己の全てを賭けて生きているわけでもない。

 

私とてうんざりするほどの対話というものをしてきているのだ。そして、そんなものは不可能であると、そういう合点を十年なり二十年なりかけて付けてきたのである。

 

周りを眺めていれば、楽な対話ばかりだ。議論など、ない。この国にはそんな高尚なものはない。予め存在している合意を傷付けない範囲において好みの調整をしているだけではないか。そんなおしゃべりに過ぎない議論をやっているものの中にのこのこ出て行ってちゃぶ台をひっくり返したところで、そんなやつはキチガイ扱いされると相場は決まっておる。

 

そしてそういう扱いを何百回と受けていれば、いい加減口を開くことも億劫になるが、それは私の怠惰であり、対話の拒否は知性の退潮であると言うのか。

 

馬鹿も休み休み言えという言葉があるが、いや、なんとも、これを初めに言った奴にえらく親しみが湧くこの頃よ。

 

言うのは構わん、が、せめて、せめて休み休み言ってくれ。あの信じ切った顔で議論をふっかけられると、ついそういう言葉が口をついてでる。