小幡敏の日記

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飲みたいから自粛したくない

自粛推進派というのは、その中にどれだけ良心派がいるといっても、所詮は「僕私が我慢してるのに呑気に遊び歩くやつがゆるせない」という感情に支配されているのであって、(いくらよき市民、良識ある国民を偽装しようが)そこにはおよそ公益への関心などないし、それを糊塗する自身への狂信的信頼の足場が崩れることへの恐れこそが原動力になっているとしか思えない。すくなくとも私の周りはそうだ。

 

まあそんなことは馬鹿でもわかるからどうでもいいが、自粛推進派が言うように我々自粛破りの徒が「飲みたい」がために飲んでいるかというと、必ずしもそうではない。

 

ある人は、社交が大事という。それはまあそうだが、社交といってしまうと話が大げさになる。

 

それよりなにより、私が求めるのは友人知人との共生感だ。それは飲んだからといって得られるわけではない。飲めずとも、同じ感覚を持っている実感さえあれば当座は足りる。

 

だから、俺はお前と飲みたい、話したい、人生のうちの幾ばくかを、同じ時を共有したい、その思いがあることが確認されればそれで十分だ。

 

種明かしをすれば、「くそ、お前と飲みたいのになんでのめねえんだ!」というその気持ちさえ素直に吐露してくれればそれでいい。

 

そんな簡単なことを何故言わぬ。

 

「こういうご時世だからね、、、」などと、そんなことは貴様の口からきかんでも分かっとるわ、たこすけ。

 

そんなことはききたくねぇんだ。お前が今思うのはそんなことなのか。そんなことなんだろう、だから俺たちはおこるんだ、飲ませろと騒ぐんだ。

 

言うなれば、友に裏切られ、友に見捨てられた俺たちに残されたものは酒くらいしかない。

 

これが飲まずにいられるか。

 

重ねて言うが、人を愛さぬ者が命の愛護に勤しんだところで何になる。馬鹿馬鹿しい、てめえの顔を見てみろ。てめえの惨めな人生、友なくしてどうなる、師なくしてなんになる。

 

自分の命などより人を愛するその気持ちを大事にしてみよ。それが人の命を尊重することだと、そんなことはうちのガキでも知っている。

 

自粛とは、自らの命を粛清することの謂だと、そしてそれは、命そのものを粛清することだと、つまりはそういうことになる。

 

さあ、そんなことをいってもはじまらん。馬鹿に付ける薬はねえんだ。これが飲まずにいられるか!