小幡敏の日記

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嘘はいけませんよ

今障害者による運動大会が行われてますが、障害者への配慮も行きすぎるとこれは厄介なものとなります。

 

こういう言い方は嫌いですが、私は障害者を日陰者にせよとか、劣位に置いておけとか、そういうことをいいたいのではありません。

 

ただ、身の丈に合わない扱いや表現は、やりすぎるとかえって現実を破壊しかねないというのです。

 

考えてもみなさい、オリンピックだけでなく、競技会というのは人間の身体能力を競い合い、その王者を讃える場です。

 

なんでもかんでも現代的な意味付けをすればよいのではない。それがしたけりゃ、そういうものは別にこさえるべきだし、それはそれとしての価値に見合った扱いを受けるのが筋です。

 

有り体にいえば、私の身の回りでパラリンピックを話題にしているものなど皆無です。オリンピックでは嬉々としていた者すら、パラリンピックとなると誰も興味がない。残酷なことを言うなとは言わないことです。残酷なことをしているのはそういうあなたではないか。

 

器量の優れぬ娘を美人だ美人だと言って育てることがよいことか、勉強のできない息子に、実は賢いだなんだとこじつけて無理な期待をかけることがよいことか。そういうことはいつか破綻します。器量がすぐれなければ、他の美点を見いだして育ててやればよい、頭がわるくとも、素直で勇敢な男に伸ばしてやればよい、そう考える方が自然ではないのか。

 

だから私は、オリンピックに男女の別すらいらないと思っています。そんなものは女すらも馬鹿にしていると思いますが、女の方ではそんな気はつゆも感じないらしい。

 

重ねて言いますが、私は女や障害者は運動するなというのではありません。ただ、最高を競う場にレベル分けは相応しくないといいたいのです。

 

そういうことをすると、感動は拡散します。美しさは半減します。

 

ブラインドサッカーを目の見える人もやってみましょうなんてのは、お笑いとしかおもえません。目が見えるのだから普通のサッカーをすればよいし、その方がよほど楽しい。障害を知って分かり合おうなんていうのは単なる奇麗事です。揚げ足をとるようですが、それならばぜひ国民全員にハイポートなり行軍を経験して自衛官の気持ちを知ってもらいたいものだし、なんなら犯罪者の気持ちを知るために人も一人くらいは殺してみてもらわねばなりません。共感の共有というのは、あまりやり過ぎない方がよい。少なくとも人は分かり合えないし、理解など望めないものであるというくらいの常識的な人間観がない限りは、相互理解のためなどという活動は単なる社会派ポルノです。

 

そもそも、障害者の方は、そういう同情的な寄り添いを嫌がらないんでしょうか。そうであれば、私はそんな『物わかりのよい』障害者を決して尊敬はしませんし、それは宮崎学にならっていうのであれば、健常者と同じクズだと思います。

部落民だった宮崎学は、差別がなくなれば俺たちは一般人と同じクズになる、といったそうですが、見上げた心意気ではありませんか。まったく、平等社会というのが生んだのは、女も障害者も、ゲイもヒステリーも、みんなまるごとそろってクズになったと、そういうことではありませんか。これを人類の敗北と言わずになんと言えばよいのでしょう)

 

私は皆が尊重しあい、助け合える社会というものを人並みに望みます。が、今我々がやっているような曖昧な馴れ合いと曖昧な不干渉からは、決して我々が望むような幸福な社会は実現出来ないと、確信をもって言いたいと思います。

 

我々にはいつの時代も、どんな社会にも、価値秩序というものが必要です。