小幡敏の日記

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僕らの日本人はどこへ?

昨晩一番古い友人、といっても、僕には友人はこの一人しかないわけですが(同期同窓は他にもありますものの)、彼と酒を飲みながら電話していておりました。

 

携帯をみると一時間半ほど話していたようですが、ほとんど記憶にないほど痛飲してしまいました。ただ、冒頭私が『俺は最近日本人がわからぬ』というと、彼もそれには同意し、『それに従うか否かはともかく、昔から日本人の気質性向には明るいと思ってきたが、それがどうも心許なくなってきた』と述べました。

 

それを受けて僕が『ああ、そういうことは確かにある。日本人というものがどんどん得体の知れないものになってきた。こういえばああ言うだろう、ああすればこう反応するだろう、というのが昔は容易くわかったものだが、ここ何年かはそうはいかない。外人のほうがよほど話が通じるくらいで、日本人がどんどん疎遠に思えてくる。しかしこういう気配が自覚出来るほど確かになってきたのは、ちょうど我々が学部にいたころ(十年ほど前)ではないか』と言うと『それはそうだ。傾向としてはあったものがその頃からだいぶ加速したかに思われる』とのことでした。

 

ひとつ断っておきますが、彼も私も若かったとはいえ、進歩のない人生を送っておりますから、単に『世の中を知った』のではないということです。ただ青年の早合点や夢想が世間に裏切られたのであれば、なんのことはない、さっさと順応するしかない話です。

 

それを前提に言わせてもらえば、要は我々の愛する頑迷で愚劣で野卑な日本人が消えたということです。かわりに表れたのは、やわらかい、りこうで物わかりのよい日本人でした。僕らは決して彼らを愛せない。いや、彼らが日本人だとはどうしても信じられないのです。

 

『そんなことは知らぬ。我々健全な日本人は前進する、貴様らは懐古趣味の足手まとい』だと言うのであれば、僕らには返す言葉もありません。

 

ただ、僕らはただ昔を懐かしむほどお気楽でもないし、そんなことなら要らぬ苦労を選ばないということだけは言いたい。みたいものではなく見なければならないものを見る、やりたいことよりもやらなければならないことをやる、そういうことを積み重ねて出て来た実感が、まったくの取り越し苦労であるものでしょうか。