小幡敏の日記

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安倍氏撃たれる

先ほど安倍晋三氏が撃たれて心肺停止との報が流れた。

 

案の定、『どんなことであっても暴力に訴えてはならない』といった、弱虫の強がる声があがりはじめているが、過去において我が国の政治家達は、爆弾を投げつけられ、全身に銃弾を浴びながらその信念に従って政治に取り組んでいた。現代人はそれを単に軍国主義を用意した凶行のように歪曲しているが、そんなことはない。暗殺を目指した人間のうちにも、疲弊した国民生活を憂い、政府財閥の悪辣に対する痛憤があったのである。そういう意味で、撃たれる方も撃つ方も、今よりもはるかに真剣に、文字通り命を賭してこの国の問題に取り組んでいたということに間違いはないだろう。テロの肯定かとか、そういう幼児的反応ではなく、現に世界は暴力に裏付けられており、その隠匿をはかったところでかえって隠蔽された暴力は民衆に牙を剥くことを知るべきだ。

 

僕は安倍晋三氏に思うことはさほどないが、思い出すのは平岡梓氏の『伜 三島由紀夫』で、息子の葬式にやってきた弔問客の内僅かに数名が、『立派にやり遂げられました、おめでとうございます』と述べたという話だ。

 

僕は安倍氏が三島に比肩する事業を為してきたとは全く思わないが、少なくとも此度撃たれたことにより男を上げたのだとは思う。石原慎太郎も、凶弾に倒れて死にたかったろうなと、思わないでもない。

 

いずれにせよ、僕が言い得るのは、日本人はこの事件を決して適切に扱えないだろうということである。日本人は理解できないものを前に、ただ硬直し、自らの安全が確認されると、徐々に、しかしながらいっせいに、声高な非難を始める。

 

今回はこれっきりで犯人も捕まっているのだから、動揺が収まるのも早いだろう。ただ、脊髄反射で暴力反対を言うだけだ。

 

反対するのは構わんが、さあそれで我々の政治はどうする。

 

安倍氏を撃ったものの素性も事情もわからぬでは判断はつかないが、撃ったというその事実だけで狂人扱いしていたのでは、我々の見識はいっこう改善されない。

 

おおこわい、おおこわい、そんなことでは我々はいつまでも女子供の国を脱することは出来まい。

端的に言おう、安倍晋三氏が僕は羨ましいのである。皮肉でもなんでもない、ただ、総理を経験した程の男であって、凶弾に倒れる、そのことがうらやましいのだ。男子のこれ以上ない死に様じゃないか。僕は決してからかっているんじゃない。心より、彼の立場が羨ましいのだ。撃たれるものにも相応しい格がある。彼は一応それを備えた。僕にはその欠片すらない。

 

従来僕は安倍晋三氏を支持していなかったし、むしろその曖昧さと不甲斐なさを軽蔑したこともあったが、見直さなければならないだろう。彼自身の内に何かが起きたのではない、彼自身は変わらぬのかもしれない、そんなことはどうでもよい。彼が歴史に祝福されつつあるという事実の方がよほど大事である。僕は今回の悲惨事によって安倍氏が好きになったし、彼を前にしたら恐らく笑みがこぼれる。愉快だから笑うのではない、好ましく、彼のことを立派だとさえ思うからである。人間、撃たれるにも資格がいるのだ、彼にはその資格が備わっていたのであるから、僕はその点において、心より彼を買う。

 

安倍氏には生還して、これを笑い飛ばす程の活躍を期待したい。

 

安倍晋三氏逝去とのことである。彼が弔い合戦の旗印を用意出来なかったことは手落ちだ。今後彼の『当初の』意志を継ぐものが出るか、それはわからないが、彼が保守の輝くホープだった姿を継ぐ次世代の指導者が、真の指導者が出ることを期待する。とにかく、安倍氏には弔意を表する。やり残したことが、彼にはまだ沢山あったはずだし、暗殺者の出来が、あまりにも惨めなものだったのは残念である。)