小幡敏の日記

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れいわ新撰組

参院選からしばらく経ちましたが、あの選挙の勝者というのはよく言われているように、れいわ新撰組(N国でもいいですが)なのでしょう。これを受けて、れいわ新撰組にすり寄る、といっても、「これはこれで案外見るべきものがあるんだ」とか、「ここさえ修正されれば共同できるんだ」とか、妙に上から理解を示すような態度をとる方が沢山います。

とはいえ、そんなもの、山本太郎からしたら余計なお世話というか、有り難迷惑なのでしょうし、あの男のことですからどうせ今後の戦術として算盤はじいているに違い有りません。ヒトラーと較べるのも、ヒトラーに悪いですが、かの総統も緻密な戦術で共産党その他の勢力を出し抜いていきました。

 

まぁ何が言いたいのかと言うと、れいわ新撰組というものをダシに既成政党や政治の欺瞞や腐敗を批判し、或いは政策的失敗を指弾する、というのはわかりますし、それは結構効果的な構図なんだとも思います。しかしながら、それをする者が保守であれば話は変わります。

保守というのは常識とか生き方を問い、歴史と文化とに規定されながら生きる態度でありますから、実生活上で彼らが大事にすべきは良識というか、庶民の知恵みたいなものでしょう。

これはもう現在というものを盾にするしかありませんが、山本太郎という男を良識に従って信用できる、という人間がいるのでしょうか。

もっとも、小泉とか小池とかに期待をかけ、信用しては、「裏切られた」と仰る賢明な紳士淑女は問題にならないはずですが、それでもなお、「山本太郎は胡散臭い」ということくらいは分かる人間が大多数のはずです。

 

であれば、その曖昧な平衡感覚をとるべきです。人は魚の腐敗を鼻で知るように生きるべきです。

 

障害者を国会にいれる、これが何であるか。少数者や弱者というのは弱者天国の現代社会ではそれ自体批判されえぬ立場を築いておりますから、議論が求められる国会に相応しくない、ペルソナノングラータであることは明白でしょう。彼らはすでに答えを強制する真空としてあるのですから。

 

山本太郎という男はそれを見据えて彼らを国会に送り込んだのでしょう。これで彼は決して批判されないという足場を得たのです。障害者自体をどうこう言うつもりはあまりないのですが、彼らが意図せざるところで、障害者にとっても健常者にとっても不幸な利用のされかたが山本太郎という悪魔によってなされる、そのことはこの国の政治にとっていいことであるはずがありません。

大体、当事者性を強調すること自体、危険であることは認識せねばならない。

障害者が当事者だから、というのであれば、うちの2歳の娘だって幼児教育無償化によって生活が大きく左右される当事者です。実家で飼っている犬だって、法の適用を受けるものですから、立派に当事者でしょう。もっと言えば、精神病患者も、死刑囚も、みな当事者です。

精神病患者は病棟での拘束を望まないでしょうし、死刑囚は死刑の野蛮さを主張するでしょう。

 

一見馬鹿げているかもしれませんが、こういう論理が行き着くのは、利益集団の反目と決して分かり合わない対立です。

 

国会ないし国家政治とは、多様な社会から共同体の指針や色合い、ないし正統というものを導き、育てる営みです。それがなくなったとき、政治というものは共生への力を決定的に失うことになります。正統なくして、異端もないのです。しかしながら、価値の秩序が社会の安定や健全な発展に必要であることは自明であるどころか、前提となるべき理解です。女の権利を守らなくてよいと多数のものが考えたら、それでよい、ということにはなりません。あくまでもそれは守らねばならないですし、そこには秩序や正義への信仰が求められます。

 

そうした秩序への帰順を破壊するものとしてあるれいわ新撰組に、あろうことか保守を標榜するものが甘い顔をする、そんなことがあってはなりません。政治的打算でそうしているなら、もうそれは保守の態度から一歩も二歩も外れているのではないでしょうか。