小幡敏の日記

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床屋

 私は床屋というものが好きだ。それは恐らく床屋の主人の世間を見る目というのが世人に秀でて地に付いているからであろうと思う。床屋と言うのは例外的に落ち着いて多くの者と話をする社交の場である。酒も入らず、素面で不特定の客たちと世間話をすることにかけて床屋の主人に比肩するものはそうそうなかろう。人は皆社会で世話しなく動き回り、波に揉まれ、草臥れきっているが、床屋は同じ場に居を構え、日々立ち寄る客達を世話しているのであるから世の中にも独特の明るさを備えている。
 また、床屋は目を見ず、人と正対せずに会話をする、これまた特権的な立場にある。であるから、彼らは個人として相手に対峙することなく、容易にその心の襞に触れ得るのである。 
 私の行きつけの床屋の主人は女性で、名を節子さんという。良い名である。節子さんは秋田の父と宮城の母から生まれた70がらみのお婆さんで、穏やかだが芯のある、凛とした雰囲気を持った方だ。私は彼女の、人を憾まず、世間の道理に素直に従う生き方にいつも心を絆されるが、彼女の言をいくつか記しておきたい。私は彼女の生活者としての知恵と良識に心から敬意を表わしたいのである。


 「今の人たちはみんな忙しくってだめ。時間をお金みたいにけちけちつかって、いろんなことを手短にやってその分他のことをやるのが利口だと思っているみたいだけど、そんなことで幸せになんかなれっこないじゃない。たまには雲でもゆっくり見てみればいいのよ。私は何もしないで雲なんかみてるととっても幸せよ。私のお友達なんか、「そんなことして時間の無駄じゃない」なんて言うけど、じゃああなたはそれより幸せなことしてるのかしらねっていつも思うのよ」
「あなたほいどっていってわかる?私の田舎じゃ乞食のことをほいどっていうんだけど、あら、乞食なんていっちゃだめかしらね。でも、乞食は乞食ですもんね。そういう人がいなくなったわけじゃないのに名前だけホームレスなんてかっこつけても同じことよね。つかっちゃいけない言葉ばっかりで、そんなことしてるから世の中に余裕がなくなってみんな窮屈で、ぎすぎす人にあたったりいじめたりするのよ。昔はそりゃあ乞食とかめくらとか色々いったものだけど、少なくとも今よりみんな穏やかな気持ちを持っていたし、そういう人に対しても今みたいに遠いものとは思わなかったものですよ、どっちが差別なのかしらね。餅はほいどに焼かせろなんていって、ほいどさんはおなかが減っていて餅を早く食べようとしてこまめにひっくり返すからうまく焼けるって意味なんだけど、こんなのも差別なんていわれたらなんにも言えないじゃないの」
「電車かバスなんかでもみんな携帯ばっかりかちゃかちゃいじって、ゆくっり外なんか見てた方がよっぽど退屈しないのに。何を見てるんだか知らないけど、本だって紙で読まなきゃだめよ。紙とインクの匂いが思い出に残るんだから。ふとした時に、ああ、あの時読んだなって思いだせるのは紙の本でしょ?人間なんてそんなものだと思うわよ。でも最近ちょっと紙の本を読んでる人が増えた気がして、そんなのをみるととってもいい気分だわね」
「交番の近くの肉屋さん、あそこはいいわよぉ。いつも安くておいしいし、今日はこれがいいとか、明日は何が入るからとか、献立考える手間も省けるのよ。スーパーなんて便利便利っていうけど、あんな風になんでもあっちゃかえって何にしたものか迷っちゃっうものよね。便利なんて案外不便なものよ」
「今のお母さんは忙しい忙しいっていうけど、私のお母さんたちなんか家電なんかなんにもなくって、家の仕事も畑の仕事も、お父さんの漁の手伝いだってしてたんだから、ボタン押すだけで洗濯できる私たちが忙しいなんておかしな話よね。ほんとに忙しいのかもしれないけど、そうだとしたら世の中なんてちっともよくなってないみたいでなんだかおかしいわね」
「昔はみんな余裕があって、人のこともよく考えていたし、何よりみんな自分に納得していたわよね。だから人の関係もうまくいってたんじゃないかしら。今の若い人たちはなんだかみんな自信がないみたいで、どうしても人にやさしくする余裕が持てないみたいね」