小幡敏の日記

評論を書いております。ご連絡はobata.tr6★gmail.comまで。(☆を@に))

誹謗中傷

色々と経緯はあったものの、筆名を使用している私が言えたことでもありませんが、私は誹謗中傷など別にかまいやしません。

 

これが何に対する当てつけかはこちらからは申しませんが、誹謗中傷が怖ければそんな矢面にのこのこ出て来なければいい。

 

いや、確かにこれにも様々な場合がありますから、普通人の行動範囲でもその対象となることもあるでしょう。

 

しかしながら、そんなもの、なぜ気になりますか。人の毀誉褒貶など、どこでも当たり前ではありませんか。匿名だとそれが極めて苛烈になるのは事実ですが、むしろ匿名でいられるようなところは、目をつぶる必要も、耳を塞ぐ必要もない、そんなところにいかなければすむ話です。

 

だからといって、どんどん糞味噌に言えというつもりは全くないのですが、ネットで自分がどういわれているのか気にする者をみていると、こういう意地悪もいいたくなる。

 

正直にいえば、下らないことをして、下らない罵りあいの末、下らない落ちこみ、下らない興奮、もう全てが下らない。

 

最近じゃ下らないことの末に命まで粗末にする者がいるので、おいそれと鼻で笑えなくなっておりますが、こんな下らねえことにさも深刻そうな顔をして憤ったふりをする者をみていると、なんともまあ、呆れてものもいえないとはこのことでしょう。

 

私はよく、人はみんなあんたみたいに強くない、と怒られますが、別に私は強いつもりもない。小さい頃はむしろ臆病だと親からもからかわれておりました。

それでも怒ったり泣いたり笑ったりするうちに、世間のだいたいのことには動じなくなるのはなにも私が人並み外れているからではないでしょう。同じことを繰り返していれば誰だってなれてくるものです。

 

だからこそ私は人に馬鹿にされようが貶されようが、さして気にならない。それはそういうことに慣れているからです。まぁよく馬鹿にされてきました。もはや慰みものですらあった。

 

そら腹は立ちますが、自分の庭が荒らされない限り、それ以上のことはありません。

 

そういう慣れは自然自然と身に付けていくものと思っておりましたが、どうやらそうでもないようです。

 

世間はこういうことに対し、反射的に悪を殺せ!と叫びますが、悪を御せるようになれとはいいません。泥んこ遊びもさせないくらいですから、身体が弱くなるのも当然でしょう。そういうことがあらゆる局面で進行しているのではないか。

 

人間がどんどん馬鹿になってはいないでしょうか。どんどん弱くなってはいないでしょうか。何もかも去勢したあとに、私たちは一体何を生命の動力源にするのか。

 

恐ろしいほどの馬鹿馬鹿しさが我々の生活を完全に窒息させるのに、もうさほど時間はかからないのではないでしょうか。