小幡敏の日記

評論を書いております。ご連絡はobata.tr6★gmail.comまで。(☆を@に))

小さな記憶

今日この頃では生活の中の常識が目まぐるしくかわってしまったせいで、今日許されているものは明日は許されず、その逆もよくあることです。

 

世人はこれを当たり前として、古いやり方は全て悪と考えて平然としておりますが、私などはこういうあまりにも早い変化には強い不安を覚えます。

 

私自身についていえば、父方が都市部の中産階級であったのに対して、母方は地方の土建業者(半農)でした。

 

奇妙なことに、世間的にみれば極めて教育水準の高い父方からは凡そなんの精神的遺産を引き継いでおらず、私の幼少からの生活作法はもっぱら母方のほうから汲み出してきました。

 

記憶に残っている些末な記憶は数限りなくありますが、いくつか記しておきましょう。それぞれの評価はむしろ問題ではありません。そういう生活があった、ただそれだけのことです。

 

・母の兄弟(昭和20年代生まれ)は躾のために牛小屋の牛から舌がぎりぎり届く柱に縛られたそうです。

・母の家では鶏を飼っておりましたが、卵の出が悪くなると殺して食ったそうです。この時、鶏の首を落として軒先に逆さ吊りにして血を抜くのですが、それが気味悪く、母は今でも鶏肉が苦手です。

・母の家の近くには被差別部落があり、こことは生活圏を異にしておりました。母は小学校まで未舗装の国道を一里ほど歩いて通っておりましたが、共に通っていた女の子がここの子供であり、ある年頃になると向こうから離れていったそうです。

・この部落は私の幼少期にもまだそれとして残っており、大人の話のなかには「あれは下○○(上○○に対置される)のもんだが、なぜあんなものとつき合うのか」といった会話がありました。平成に入ってからのことです。

・そして彼らの地区というのは、部落についての何の知識もない幼い私にとっても異様なもので、なにか得体の知れない荒廃ぶりをさらしておりました。単なる散らかりとも汚れともちがう、恨みと苦しみとが塵と積もったような、時の重さを染み込ませたきたなさとでもいうか、それは私を恐がらせ、母に一体ここはなんなのか、人は住んでいるのか、と問うたことを今も覚えております。母は少々うろたえ、人様のうちをじろじろみてはいけないと足早に立ち去りましたが、後で、お母さんもこのあたりは小さい頃から怖くて走って通り抜けていたのだと教えてくれました。

・これは母の田舎だけでなく、父の方もですが、父母の若い頃は座敷牢というか、障害者を世間に隠すことがよくみられ、窓のない部屋や閉め切られた部屋があり、噂されていたといいます。そして、部落にはそうした部屋が他に比して多く、やはり通婚の弊害かと話されていました。

・私は東京の多摩地区に育ちましたが、ここにもやはり部落というのはあり、川べりの集落などにいくと、子供ながらにその異様さを感じた場所があります。そこでは奇妙なほど道が整備されず、やはりあの気味の悪い暗さが時を支配しておりました。人気はないのに、人の存在だけは異常な強度で感じる、あの居心地の悪さは今でも残っております。そしてやはり、あれは座敷牢なのではないかと思わせる建築が見られます(窓のない一間だけが平屋の上に増築されている)。

・父が子供のころに台風の氾濫で堤防が決壊し、この部落の家が川に流されました。そこにテレビカメラが取材に訪れましたが、この家の子は父の同級生であり、ふだん大人しい彼が泣きながら「おれたちは見せ物じゃないんだ」とカメラに石を投げたといいます。これに父たちも興奮し、加勢してみんなで石を投げたそうです。

・父方の祖父は偏屈な変わり者でしたので、家族には暴力を振るうばかりで父には何も買い与えてくれなかったそうです。自転車のない父は友達が自転車でいくのを走って追いかけ、野球をするのにグローブもないので布切れにボールを当てて拾って投げ返していたということです。

・母の実家は農家でしたので比較的家屋も大きく、襖を取り払えば20畳弱の広間ができました。ここで盆や正月には机を並べて親戚が会して宴会をしたり、葬式をしたりしたのですが、これはまったく貴重な経験でした。

・母方の祖母は56才の時に歯科治療の失敗で脊髄炎となり、首からしたが完全に麻痺しました。それから15年あまり寝たきりの生活を強いられましたが、歯医者は知らぬ存ぜぬの一点張りで、文字通りの泣き寝入りでした。

祖母は苦しみ通しの老後を送り、幼かった私などは騒いでは頭痛がするとしかられてばかりいたのであまりいい思い出はありません。ただ、6才くらいのときにふと祖母の方を見ると口から泡をふいており(これはいつものことで、誰かが拭ってやるのをわたしも知っておりました)、私は大人を探しましたが見つからず、しばらくもじもじとしておりましたが、意を決してティッシュで拭ってやるやいなや走って逃げ出しました(大柄で寝たきりの祖母を私は怖がっていました)。あとで母が、祖母が大変喜んでいたと聞かされ、私は疎遠な人間同士が疎通することの味わいに戸惑ったのを覚えております。

・母の兄弟は5人ですが、そのうちひとりは胎内で死に、もう一人は生後数ヶ月のときに金魚鉢に頭を突っ込み、溺れて亡くなりました。

・祖父はシベリアに抑留されましたが、当時は百人で隊を組まされ、1日百本の木を切り出してくることを命じられたそうです。また、当然ですが寒さは厳しく、隙間風だらけの便所では小便をするそばから凍っていくほどだったそうです。

・私は小さい頃ヨットから海に落とされ溺れました。そのせいで今でも海が苦手で、プールでは何キロでも泳げますが、海は波打ち際でも足がすくみます。

・私は心肺停止の仮死状態で生まれたので、将来言語機能や運動機能に障害がのこると言われました。それを親からも聞いていたので、幼心にもどこかで吹っ切れたところがあり、そのおかけで人と競ったり張り合ったりする気持ちがほとんどないのだと思います。これはいったん死んだのだと思って生きてきた功名です。