書くものは言うまでもなく、私は平生、ぽりてぃかるにはいんこれくとな言葉を使って話しています。
世間がこういうことにあんまりうるさいから当てつけで言っているという面が全くないとは言いませんが、私はただ、この言葉こそがもっともこの名状したいものに相応しいと考えるからこそ使うに過ぎません。そんなことは当たり前です。
しかしながら、これに突っかかってくるおとぼけさんやうっかりさんが沢山ある。
うんざりします。
そういう人を見ていると想うのは、彼らは別段、そういう言葉を何か外的な影響なしに嫌悪しているわけではないということです。
その言葉を本当に、自らの内なる声に従って不適切だと感じている者など、私はお目にかかったことがありません。不適切だとされているから不適切だと思って安心しているに過ぎない、いや、むしろ悦に入っているといった方が宜しいかもしれません。彼らはまるで、現代人が偽善と見なして軽蔑する道学先生そのものです。
そういうと、そんなことは貴様の不感症だというのかもしれません。我々は真に斯様な言葉を嫌悪しているのだと。
が、私には証拠がある。それは、そういう彼らこそ、あまりにも醜い言葉を、あまりにもお粗末で、あまりにも軽薄な言葉をなんの躊躇いもなしに使っているではありませんか。
あれほど言葉というものをいい加減に扱っている者が、人の言葉の選択にケチをつけて、ややもすれば道徳的非難を向けるとは、いったい何ごとなのでしょう。
反省すべきは手前様の方でござんすよ。
頭の足りないめくら野郎は、まずは人にぶつからないように歩くことから学ぶことです。それはてめえの方で転ばぬように気をつけるよりも、ずっと大切なことじゃあございやせんか。