小幡敏の日記

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ワクチンは若者から打て

俺もまだ二十代だからこういうと誤解を招くのかもしれない。

 

うるさいからいっておくが、俺は最後で構わん。この調子だとよぼよぼのじいさんになってからになりそうなペースだが、別にそれでも構わん。俺はどうでもいい、が、ワクチンは若者から打て。なぜなら、それが日本人諸君が望んだことだからだ。

 

この間近所の神社に行ったかえり、区の掲示板にワクチン接種に関する張り紙があった。そこにはこうある。

 

「まずは高齢者から」

 

カチンときた。別にじいさんばあさんに割り込まれたと思ったからではない。どの口が言うのかと感じたからだ。

 

そもそも一番我慢ならんのは、国民諸君が命の量的な扱いを厳に拒みながら、それでいていわゆるコロナへの過剰反応は全て粗雑な計量的判断に基づいて行っていることだ。

 

若者が老人にくらべて重症化しなかったり死ななかったりするのは、これはもう明白である。

 

しかしながら、世間は若者にも等しく行動制限を求めた。それは家庭内感染を防ぐためだ、などともっともらしく語られた。

 

だが、若者は別に恐れる必要はないのだから、それはただ老人たちにお付き合いしているに過ぎない。

 

そこに引け目があるのか、若者が重症化するとほっとしたかのように騒ぎ立てる。如何に少子化進むといえども、この日本にいったい何人の若者がいると思っているのか。

 

その二、三が風邪をこじらせた(おれはコロナは風邪だとことさらいわんが、若者にとっちゃそらちょっと曲者の風邪だ)といって喜ぶ。若者だって危ないんだという。

 

そして、他の病気や死因と比べようとすると、もう狂わんばかりの勢いで「命は数ではかるものじゃない」と訴える。「一年がかりで一万そこそこの死者」などと言おうものなら、社会的には抹殺されるといってよい。

 

公私混同ここに極まれりだ。社会の損失としてみれば一万という死者は、さほどのものでもない。それもほとんどが寿命に近い老人の死であるなら、子供や若者の命を奪う病気にくらべれば、コロナは社会にフレンドリーな病気とさえ思う。

 

それを言わせないのが世間の風だ。こんなことは絶対に言わせない。

 

だが、そういうならば、すなわち、確率や比較考量で命をはかるなというなら、俺は言いたい、なぜワクチン接種を老人優先とするのか。

 

若者に一厘でも死ぬ可能性があるというなら、なぜ老人にワクチンを譲るべきといえるのか。死ぬ者にとっては確率などない。一人しかいない自分自身が死ぬのである。だったらそいつにとって、ワクチンを老人に譲る理由などない。

 

社会の利益よりも個人の生命、権利を優先するというのが、全体主義を憎む賢明なる国民諸君の信条なんだろう。

 

そういう考えを国民は必死になって守ろうとしたのではないのか。命は平等だと、量でみるなと、そういったのは君たちだろう。多数の利益よりもひとりの命が大事だと、異論を認めず騒ぎ散らしたのは君らではなかったのか。

 

だったら老人からなどといわず、ワクチンは平等にせよ。いや、それでもたりん。君らはもっと理解ある、ひとりの人生に寄り添う人間のはずだ。それならば生き終えつつある者などより、これから生きねばならないものにワクチンを与えよ。それが君らの高尚なる信条であり、「価値観(=雰囲気)」なのだろう。

 

あらためていうが、俺はワクチンはいらん。俺はたとえコロナにかかっても、「なんだ、こんな風邪、今によくなる」と言ってやるさ。それで死んでも、俺は構わん。

 

馬鹿と笑うなら笑え、馬鹿はどっちだ馬鹿やろう。

 

おっと、こうしているうちにも電車の向かいに座った女が逃げていったぞ。なんで逃げていったかはお分かりでしょう。

 

無礼者め。お前が後生大事にするのは一体なんなんだ。

 

何のためにくだらねえ人生、飽きもせず毎日満たされずに過ごしているのか。今一度よくよく考えて見るもんだ。

 

とはいえ、あんまり考えすぎるなよ。馬鹿が頭使っても、せいぜいコロナを怖がるくらいのことしかでけんのだから。

 

さて、そろそろ家につくことだし、酒でも飲みますか。あいや、なんだこの缶は。お疲れ様でした。