小幡敏の日記

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僕は昔の野球が好きだ

https://approach.yahoo.co.jp/r/QUyHCH?src=https://news.yahoo.co.jp/articles/cd3f163aa40b213265c63780708037d92a412546&preview=auto

 

野球というのはアメリカ人のくせになかなか隅に置けんというくらい、味わい深い競技だが、近年高校野球の熱投反対、映像判定導入、勝ち星軽視等々、野球を取り巻く環境は悪くなる一方である。要は、人間的なるものは全て排除されつつある。

 

馬鹿どもはこれをコンピュータゲームにしてしまいたいようだ、はたして、そんな試合をみて我々はそれを面白いと感じるのか。

 

いやはや、『流れなどない』とな。馬鹿に付ける薬はない。流れがあるかないかなんてどうでもいいのだ。我々が流れを感じるところに流れはある。我々はそれを感じ、それに翻弄されることに野球の面白さを感じている。それをてめえの好みで解剖してなんになる。

 

馬鹿馬鹿しい。こんなことをすればするほど野球はつまらなくなる。悪いがてめえの書斎でやってくれ。データ野球などというものがいったい野球を面白くしたか。我々は昔見ていたそれより没頭しているというのか。

 

スポーツに科学など必要ない。いや、科学なんて必要な場面は限られているのだ。科学者を見ればわかるだろう。あんなやつらと飲む酒がうまいものか。

 

科学など、世間の裏方として小さくなっていればいいのだ。そして世間諸君、科学などに頭を下げるな。科学は決して君の味方ではない。科学に感情などない。科学は君を不幸にするだけだ。

 

ブラッグス万歳!

安倍氏の国葬

なんだか色々言われておりますが、批判者の言う『国民全員に弔意を強制する』から反対だなんていう与太には納得がゆきません。

 

そんなことを言い始めたら、国民全員が弔意を持つ相手なんて到底望めませんから、そもそも国葬なんてものが成り立ちようがない。天皇陛下崩御だって、そら不届者は弔意なんて持ちませんから。そもそも国葬なんてものが規定もないのだし、出来やしないんだと、そういうべきでしょう。そう、日本人は自衛官が殉職したって国旗をかけて礼砲うって、国民皆で哀悼するなんてことには興味もない連中なんですから。

 

むしろ僕なんかは、もっと正々堂々『安倍晋三氏は国葬に値しないのだ』というべきだと思う。そらそこらのおっさんが国葬なんかの対象にならんと言うのと同様、そういったところで私は安倍晋三氏を貶めることにはならんと思う。

国葬にするというのは、それだけのことであって、別に国葬にすべきではないといったところで故人の命を軽く見ることにはならんはずです。

 

まあ日本人は国葬に関しても政教分離なんてことを言い出す機械人間たちですから、そもそも国葬などを執り行う資格も能力もないのでしょう。そういう国で国のために働いたり、あるいは国の為に戦う者を期待するなんてどうかしてます。日本人は国士が出ないことを嘆く前に、国士に傅くことを学ばねばならないのではないでしょうか。

 

国の為に働く人間は、決して国民の奴隷ではないのですから。

何故酒を飲むか

五歳の娘が『なぜととはいつもお酒を飲んでいるの』と言うものだから、

 

そらお前、世の中が嫌だからだよ、と答えた。

 

すると娘が言う、

 

でも、そのお酒はととの嫌いな世の中で造られたんじゃないの。

 

こりゃ参ったな。お前が一番正しいよといって、その日はそれでお仕舞いにしました。ただ、酒も近頃じゃ不味くなってるんだぞと、そうまでは言いませんですがね。

DonaldFagen

僕は父の影響で小学三年生くらいにビートルズを聴き始めて以来、60ないし70年代(一部80年代)の音楽に親しんできました。

 

自衛隊に入ってからはあまりゆっくりと音楽を聴くこともなくなっていましたが、最近居間にアンプとスピーカーを設えたので、久し振りにCDを引っ張り出して、昔夢中で聴いたアルバムを流しています。

 

小学生の時はもっぱらビートルズやスティービーワンダー、カーペンターズ、スティング、なんかを聴いておりましたが、中学に入ると自分で開拓を始め、ロック、ポップス、フォーク、ジャズ、軍歌、演歌、歌謡曲と、クラシック以外は何でも聴きました(クラシックだけは今でも聴きません)。

 

思い出深いアルバムはいくらかありますが、その中でもDonaldFagenのNIGHTFLYは記憶に鮮明で、初めて聴いたのは中学一年の通学車内、小田急線内喜多見~成城学園前の間でした。

 

私は薄情な方ですから、映画を見ても音楽を聴いてもわりに淡白ですが、これは非常に感動したのを覚えております。IGYもNIGHTFLYもいいが、その時はGreenflowerstreetをとにかく気に入った。

 

何だか学校に行くのが馬鹿らしくなって、乃木坂から麻布に歩くのをやたら遠回りして繰り返し聴いたのを思い出します。

 

音楽は昔の記憶を上手に思い出させてくれるからいい。DonaldFagenはお薦めです。僕は小学時分からユダヤに反感がありましたが、DonaldFagenを聴いて一挙に尊敬し始めました。懐かしいですね。

本日の青木理

https://mainichi.jp/articles/20220708/k00/00m/040/438000c

 

今日もAOKIは平常運転です。

昨日の安倍氏襲撃が2.26、5.15を思わせる?

歪んだメガネもここまでくるとただの痴呆です。5.15の被告人弁明を読みたまえ、2.26の青年将校が残した獄中記を読みたまえ、或いは当時の猶存社黒龍会の活動、満州シナにおけるアジア主義者たちの運動を調べたまえ。いったいどこに、かの純烈な熱情と鬱屈せらる憂憤が見られるというのか。

 

今回の矮小で奇形の、あまりにも惨めな悲惨事と、5.15、2.26との間に何ら似通うところなどなかろう。昭和のテロルには、国民の中に同情、連帯すらあった、そんなものが今どこにある。あんなよれよれのポロシャツをきた、眼鏡の小男が単騎乱心したこと、それがいったい郭清を目指した昭和維新の男たちとなんの関係があるというのか。こちとらこの度の刃傷沙汰が2.26なんかとはなんの接続もないことが不満なんだ。テロルもここまで劣化したかと、そうとしか思えない。もののけ姫のオッコトヌシに言わせれば、『みんな小さく馬鹿になっている』というところだ。現代のあらゆるものと同じく、いや、それ以上に、テロルも最低の水準にまで落ちている。こんなテロルはテロルとさえ呼べない。ただの乱心ではないか。きちがい沙汰と何が違うのか。そして、テロルは決してきちがい沙汰ではない。それはむしろ、テロル肯定派であるはずの左翼諸君が知っているはずだ。革命に血は必要だろう。

 

 

 

とにかく、馬鹿も休み休み言うものだ。

 

これが2.26を思わせるというなら、AOKI君、きみはそのロマンスグレーの御髪故にリチャードギアにでもハリソンフォードにでもなれそうなものだよ。

 

なに、カッパがテングサかぶっているようにしか見えないって?

 

そう、そういうことだよAOKI君、君がインディジョーンズになれないように、山上徹也氏は三上卓にも磯部浅一にもなれないんだ。

安倍氏撃たれる

先ほど安倍晋三氏が撃たれて心肺停止との報が流れた。

 

案の定、『どんなことであっても暴力に訴えてはならない』といった、弱虫の強がる声があがりはじめているが、過去において我が国の政治家達は、爆弾を投げつけられ、全身に銃弾を浴びながらその信念に従って政治に取り組んでいた。現代人はそれを単に軍国主義を用意した凶行のように歪曲しているが、そんなことはない。暗殺を目指した人間のうちにも、疲弊した国民生活を憂い、政府財閥の悪辣に対する痛憤があったのである。そういう意味で、撃たれる方も撃つ方も、今よりもはるかに真剣に、文字通り命を賭してこの国の問題に取り組んでいたということに間違いはないだろう。テロの肯定かとか、そういう幼児的反応ではなく、現に世界は暴力に裏付けられており、その隠匿をはかったところでかえって隠蔽された暴力は民衆に牙を剥くことを知るべきだ。

 

僕は安倍晋三氏に思うことはさほどないが、思い出すのは平岡梓氏の『伜 三島由紀夫』で、息子の葬式にやってきた弔問客の内僅かに数名が、『立派にやり遂げられました、おめでとうございます』と述べたという話だ。

 

僕は安倍氏が三島に比肩する事業を為してきたとは全く思わないが、少なくとも此度撃たれたことにより男を上げたのだとは思う。石原慎太郎も、凶弾に倒れて死にたかったろうなと、思わないでもない。

 

いずれにせよ、僕が言い得るのは、日本人はこの事件を決して適切に扱えないだろうということである。日本人は理解できないものを前に、ただ硬直し、自らの安全が確認されると、徐々に、しかしながらいっせいに、声高な非難を始める。

 

今回はこれっきりで犯人も捕まっているのだから、動揺が収まるのも早いだろう。ただ、脊髄反射で暴力反対を言うだけだ。

 

反対するのは構わんが、さあそれで我々の政治はどうする。

 

安倍氏を撃ったものの素性も事情もわからぬでは判断はつかないが、撃ったというその事実だけで狂人扱いしていたのでは、我々の見識はいっこう改善されない。

 

おおこわい、おおこわい、そんなことでは我々はいつまでも女子供の国を脱することは出来まい。

端的に言おう、安倍晋三氏が僕は羨ましいのである。皮肉でもなんでもない、ただ、総理を経験した程の男であって、凶弾に倒れる、そのことがうらやましいのだ。男子のこれ以上ない死に様じゃないか。僕は決してからかっているんじゃない。心より、彼の立場が羨ましいのだ。撃たれるものにも相応しい格がある。彼は一応それを備えた。僕にはその欠片すらない。

 

従来僕は安倍晋三氏を支持していなかったし、むしろその曖昧さと不甲斐なさを軽蔑したこともあったが、見直さなければならないだろう。彼自身の内に何かが起きたのではない、彼自身は変わらぬのかもしれない、そんなことはどうでもよい。彼が歴史に祝福されつつあるという事実の方がよほど大事である。僕は今回の悲惨事によって安倍氏が好きになったし、彼を前にしたら恐らく笑みがこぼれる。愉快だから笑うのではない、好ましく、彼のことを立派だとさえ思うからである。人間、撃たれるにも資格がいるのだ、彼にはその資格が備わっていたのであるから、僕はその点において、心より彼を買う。

 

安倍氏には生還して、これを笑い飛ばす程の活躍を期待したい。

 

安倍晋三氏逝去とのことである。彼が弔い合戦の旗印を用意出来なかったことは手落ちだ。今後彼の『当初の』意志を継ぐものが出るか、それはわからないが、彼が保守の輝くホープだった姿を継ぐ次世代の指導者が、真の指導者が出ることを期待する。とにかく、安倍氏には弔意を表する。やり残したことが、彼にはまだ沢山あったはずだし、暗殺者の出来が、あまりにも惨めなものだったのは残念である。)

 

 

反省の態度

僕は反省ということをしきりに求めるが、果たして、反省の態度とはいかなるものか。

 

ひとつ言えるのは、反省は人に沈黙を強いるということだ。

 

反省している人間が饒舌になることは考えられない。

 

然るに、巷にはえらく賑やかな反省人もいるものである。

 

僕は彼らを決して信用しない。反省は辛いものである。少なくとも、愉快なものではない。それに耐えて反省するとき、人は沈黙する。僕は沈黙する者の姿に、心からの共感を覚え、声援を送る。

 

 

 

それとは別に、先ほどジョンソン氏が辞任したとの報に触れた。どこぞの教授が、『ジョンソンがどういう人間が、近くに居ればわかりそうなものだ。その威を借りて権力にあやかっていたものが今になって辞任する。日本が手本としてきた英国政治の劣化を思わざるを得ない』などと、相も変わらぬヨタを言っておったが、誠に残念。僕はジョンソン、なかなか好きだった。

 

加えて、参院選がやかましい。僕は断固選挙には行かないが、地元の駅じゃ共産党がよく立ちん坊をしているのを聞くとげんなりとする。

 

もう共産党が平和を言い、穏当な社会保障を言うのはやめないか。最も好戦的で過激な改革派であるべき共産主義者どもが何をかまととぶっているのか。女郎が厚着をしてどうする。女郎らしく肌を出して嬌態を見せてくれればいいのだ。慎ましい共産党など、去勢された番犬に過ぎぬ。