小幡敏の日記

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肉弾

私には七歳と五歳の子があって、順調なら今年の秋には三人目がこれに加わります。

 

上の子は小学二年生ですから随分利口になっていて、この間食卓でこういう会話がありました。

 

娘:とと(そろそろ呼び方も進歩させねば)はどんな曲が好きなの

私:軍歌か歌謡曲だな

娘:軍歌ってなに

私:軍隊とか戦争の歌だよ

娘:たとえばどんなのが好き?

私:暁に祈る、歩兵の本領、異国の丘、若鷲の歌、戦友、ラバウル小唄、出征兵士を送る歌、とか、まあいろいろ

娘:どんなのか聞かせて

私:よしきた、万朶の桜かえーりのいろー…、と、こんなのよ。これは陸軍士官学校といって、昔の軍人を育てる学校の卒業生が歌うのを収録したやつだから、本当の軍人が歌ってるんだよ

娘:でもとと自衛隊にいたんだから、ととが歌っても軍人が歌ったことになるでしょ

私:いやしかし、自衛隊は軍隊じゃないから。戦争も想定されておらんし

娘:じゃあなんで戦車とかあるの。戦闘機もあるじゃん。とと訓練行ってたけど、訓練て何かあったときの為にやるものでしょ。学校の避難訓練地震が起きた時に逃げるため、じゃあ自衛隊の訓練はなんのため?戦争で戦わないなら訓練するだけ無駄じゃない!

私:(ああ、娘よ…!)

 

出来過ぎのようですが、本当にこういうテンポで会話があります。脚色もゼロ、子供だってこれくらいの理屈はつくんですな。

七歳でわかる矛盾を抱えた組織が戦争を戦い抜けるというなら、地球というのも随分生きやすくなったものです。宇宙戦争でもおこらぬ限り、安心してよさそうだ。

 

そういえばこの前、空自の何処かの部隊がパワハラ是正のために、階級を取り払って司令から下っ端まであだ名で呼び合い、フラットにレクリエーションなどをやる取り組みを始めたというのを見ました。

 

イナとかよっちゃんとか、そんなことで呼び合いながら和気藹々、親睦融和に努めているわけですが、まぁこんな連中を薄皮一枚に隔てて中露と対峙するのが不安でない、怖くないというのであれば、そうすればいい。日本人は随分肝っ玉の据わった民族になったということです。

私は鉄拳飛び交う猛訓練の様を見せられた方が遥かに安心しますがね。

 

それはそうと、今桜井忠温の『肉弾』を読み返しておりますが、『此一戦』もそうですが、この頃(日露戦役)の戦争文学は言い訳がましいところがなくて実にいい。現代の戦争モノはおよそ弁解じみたものばかりで、まともなことを言っていようがどこか後ろ暗さが残りますが、『肉弾』なんかは朗らか、快活、とにかく胸のすくような書きっぷりでなんだか安心すらします。

 

そういえば、来島恒喜に爆弾を投げつけられ、脚を吹き飛ばされた大隈重信は、来島のことを天晴な男だといい、メソメソ悩んで華厳ノ滝に飛び込むような女々しいやつより余程気持ちの良いやつだと言っておりましたが、こういう気風というか、伸び伸びした人間の溌剌なところが遺憾なく書き付けられておるところが実に良いわけです。(なお、来島はその場で見事自決しております)

 

現代の日本人が戦争のことを考えようとすると、自ずと大東亜戦争に向き合うことになり、それははなから戦後八十年間、積み上げられ、塗りたくられた反戦平和のベールを通して眺めなければならないことを意味しますから、自ずと奇形にならざるを得ません。

 

そのことをどうこう言っても始まりませんが、こと戦いないし戦争というものを考えるには、これはあまりにも不都合です。戦いの性格というのが一面的にしか見えないのはやはりまずい。結論が戦争反対というのを止めはしませんし、むしろ常識的な見解と思いますが、戦いの正体を一切見ずにそれを言うのは、いささか不用意と言いますか、頼りない意見形成に思えてなりません。

 

だからこそ、戦争に誠実に向き合いたい者は、少なくともいったんは、戦後の手垢に塗れる前の戦争を見分してくるべきではないかと思います。その意味で、『肉弾』は格好の教材です。

 

文章として優れていることはいうまでもありませんが、何より、読んでいて、ああ、なるほどこれが健康な姿だと納得させる場面が数多く描かれており、それは現代日本人にとって遥かに忘れ去られた貴重な人間の生き方でありましょう。

 

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