小幡敏の日記

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悪口の作法

作法などというほど大げさな話ではない。

僕は外見や生まれついたものをダシに人の悪口を言う癖がある。

これは褒められたもんでもないが、ちょっと堂に入ったところもあって、立て板に水とばかり、いくらでも悪口が湧いてくるし、実際に口に出してもいる。

 

有り難いことに、僕の周りの連中はこれを笑って聞いてくれる。はじめのうちは悪しざまな表現に戸惑っているが、実際そうなのだから、慣れてくれば一緒になって笑っている。妙チクリンなやつがやってくれば、やぁ次はこれに何と言うかと期待してこっちを見てくる奴さえある。

 

僕の方はなんで自分ばかり汚れ役を、と思わないでもないが、元々言わずにゃおられないタチだから、結局はご期待に応えてひとつふたつは茶化しておくのである。

 

しかるに、こういう環境は僥倖なんであって、日本じゃ外見や生れつきの特徴の類いをヤイの言うのはタブーである。

なんなら、うちのお袋なんかはこの一派の筆頭で、僕がフザけた禿げをやっつけようが、様子のおかしい気狂いの真似をしようが、すかさず『生れついて変えられないことを言うのはよしなさい』と、こうくる。

 

そういえば小学4年の時、今と同様に悪口を吐いていたら、同級の女子生徒から『変えられないものを悪くいっちゃだめなんだよ』と絡まれ、何を貴様と激昂したのを覚えている。『だめなんだよ』とはなんだ、だめかどうかくらいてめえで決めやがれと、そのときはそう思った。

 

その時から思いは変わらない。何故変えられないということが悪口の差支えにならねばならぬのか、そこのところが釈然としないのだ。

 

変えられんのだから、むしろ構わないではないか。そいつのせいではないのだから、いくら言われようがご当人は痛痒も感じなくてよい。(もっとも、僕とて滅多なことでは本人に向かって言うわけではないが)

 

だが、変えられるものならどうか。変えられるのにもかかわらず、悪口の対象となるものを抱え続けているのである。それはそいつの明白な落ち度であり、言うなれば責められても仕方がない弱点である。場合によっては、お天道様の下で歩くべきじゃないくらいのもんである。

 

それを抉るのが良くて、変えようもない悪条件を笑うのが悪いか。デブはよくて、ハゲは悪いか。ケチはよくて、片輪は悪いか。

 

僕なら卑怯者と罵られるより、うすのろと笑われたい。さもしいと蔑まれるより、愚鈍の嘲りを受けたい。

 

あいや、そもそも悪口なんて言わねばよろしいと、そうこられちゃ叶いませんが、そんならまあ、僕はようよう口を開けなくなって、僕の周りの連中は退屈するでしょうが、それでよいなら良いでしょう。僕の方は口をもぐもぐさせてりゃそれでよい。

 

たちの悪い悪口とは、それを言うことで自分が優越感を得たり、相手の評判を貶めたり、座興以上の意味を持たせたそれである。

 

思えば昔、ビートたけし綿貫民輔を指して、『起き上がったコオロギみてぇだ』と言っているのを聞いて大変感心して、幼心に、こういうことが言えるようになりたいと憧れたものだが、たけしの域には程遠い。

 

時代はなかなか険しいが、めげずに精進したい。