小幡敏の日記

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亡国を招き寄せる日本人の怠慢

よその国の混乱をダシに言うのもなんですが、ウクライナの連中がロシアの恫喝に今の所頑強(一週間で頑強というのも早いですが)に抵抗を続けているのを見て、日本人は何を思うのか。

 

私はことあるごとに、国防を完遂する上は国民の覚悟が不可欠であり、戦争は戦車や戦闘機の数でするものではないと言ってきました。

 

それは私の慧眼ではなく、常識です。しかしながら、そんな常識すらこの国にはない。国民と軍隊というのは全く別の存在であります。

 

それはおかしい。医者も教師も百姓も盗人も国民であるのに、軍人のみが国民とは切り離される、そんな出鱈目があるのか。

 

そして、そんな不可触民が日本のために戦うわけがないと、繰り返し主張してきました。

 

ウクライナは一例です、あれを見れば如何に妄想好きな日本人でも分かることでしょう、国を守るのは国民総出の努力であって、軍人にまかせて万事足りるようなものではない。

 

日本人はずっとそうだった。戦前とてそうです。大正期のある陸軍将校は、列強に遅れをとる兵器開発を念頭に、軍事技術の開発ひとつとっても、日本人は全て軍人まかせだ、然るに、国を挙げて新兵器開発に取り組む列強にそれで伍すると期待するのは怠慢も甚だしい。そうして列強が完成させた威力強大な兵器に追い散らされ、挽き潰され、阿鼻叫喚の地獄の境遇に立たされるのは国民自身であると批判しています。

 

その通りでしょう。軍人が国民の国防を代表して担うことは事実ですが、だからといって軍事は国民が軍人に任せきりにしてよいほど容易な事業ではないのです。

 

国民一人一人が最後は銃をとって立つのだと、その覚悟がない国が、将来においても平和と独立を守れるなど、狂人の戯れ事です。平和を願うのも戦争を憎むのも結構です。しかしながら、腹一杯飯を食いたいのなら我々は働かなければならないように、平和には相応の努力がいる。

 

念仏のように平和を唱えればそれが実現するのであれば訳のないことです。日本人がそれほど信仰の篤い民族だったとは到底思えませんが、こちとらそんな訳の分からぬ信心にお付き合いするつもりはありません。