小幡敏の日記

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細切れの人生の果てに何が残るのか

先週末娘を連れて上野の科学博物館に行ってきた。

 

別段私は教育熱心なわけではないが、ただ、あそこにある剥製でも見せてやろうと思ったから、連れて行ったのである。

 

そんな言い訳をするのは、あそこにいた家族連れの会話があまりにも情けないものだったからだ。

 

ひどいやつだと、子どもと展示を見ながらいちいち英単語に置き換えて説明している。小学3、4生に過ぎない遊び盛りの子どもに、「この生き物は絶滅、、、エクスティンクトしたから、、、」などとバカを言っている。それをメモさせられている子どもを見ていると不憫でならないが、残念ながらあの兄妹は環境に抗えず、世間に充満するエリートのなりそこないの一部と埋没していくのだろ。

 

まぁそれはよい。が、思えば電車などで周りを見ていても、皆下らない資格の勉強をしたり、汲々としてまともに本すら読まない始末だ。だから子どもがぶつぶつ英単語を復誦しているくらいで目くじらをたててはいけないのかもしれない。

 

そして、こんなことを繰り返していかざるを得ないまでに追い詰められた我々現代人が何かを蓄積することなど出来るわけがない。ただ細切れにされたか細く痩せた生をたどることしか出来ないのだ。

 

そんな我々が常識を失い、思考力を失い、落合陽一の如きウーパールーパー男を有り難がり始めたとて、今更なんの驚きもない。

 

見た目で人を判断するなというが、それすら出来なくなってしまったのが我々の現在地である。

 

そして、その代わりに我々が得たものといえば、少しは当たる天気予報と、ほとんど当てにならぬ科学文明の夢なのである。

 

我々はこんなにも馬鹿になってしまったのか。我々の思考力は、もはや完全に零といってよい。私はこの現代人が虫けらのように消し飛ばされようが、虫けらと差をつけることも出来ない。ただ、残念に思うだけだ。なんでこうなった、そうやって呆然とするだけだ。悔しいなんて思わない。理不尽だとも思わない。私の愛する人間はきっとどこか他の場所にいるはずだ、そういう妄想の中に立ちすくむことしか出来ない。

 

我々が生きる時代はそういう時代である。