私が戦うことを問題にすると、結論は必ず、戦える人間とそれを支える環境を作れということになる。
それはもう変わりようのない結論だが、たとえば戦争の様相は目まぐるしく変わっている。
この分野における先進国の戦い方を見れば、今後数十年、下手をすれば十数年程度で戦争における人間の役割はかなり限定的なものになるのかもしれない。
それは必ずしもSF的空想ではなく、現実である。だからこそ、もはや戦闘に従事する人間の出来不出来など問題にする必要がないというものも出てくる頃だろう。
だが、それこそが浅知恵というもので、言うなれば日経新聞的思考の賜物である。月々四千円の分別である。
機械が人間を労働から解放すると信じたお気楽な連中は人間が常に相争って相手を支配したがる生き物であることを見落としていたし、核兵器による恒久平和を望んだ愚かな科学者たちは、国家の理性など我々の困った隣人のそれとさして変わらないということが理解出来なかった。
してみれば、戦争の機械化、高度化は最終的な意味で人間を戦場から救い出すことはない。それは戦場の概念を拡大することにしかならないことは明白なのである。
その意味でこそ、戦争というものが古典的で世俗的な想像力からかけ離れていない今この時代の内に、日本における戦争の位置付けを適正化しておく必要があるのである。つまり、急がねばならない、これが最後のチャンスなのだ。
戦争が抽象化された後では、誰もこれに取り組むことなど出来まいて。
今こそ戦争を見直せと言う意味は、ここにある。今を逃せば、我々が戦争の精神を樹立することは更に困難となり、そうなったとき、日本は漂流の度合いを増すだろう。行き着く先は、既定路線としての白痴化ないし、逆回転をした後に現れる、子ども染みた戦争狂の時代である。