小幡敏の日記

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思いつきは意見とは言わない

世間の皆さんは色々と意見を言う。政治がどう、宗教がどう、教育がどう、語れないことなどどこにもないようで、学も無ければ教養もない、いや、常識も品性もない、のないない尽くしのわりに、えらく勇敢に物を言う。

 

そういう彼らの述べることに耳を傾けてみれば、それはほぼすべてがおよそ意見などとは言えない代物だ。

 

そもそもどんなことに対しても一家言あって、それを鮮やかに語ってみせるのは稀有な才能で、ごく限られた人間にしかなし得ない。

 

そういう才覚のない人間はどうかというと、どうしたって根気で押していくしかなく、十年二十年と暖め続け、悩み続けたことについて、やっと一つの意見らしいものを提出出来るに過ぎない。

 

私だって、この戦後秩序への抵抗ということに、小学生の頃から取り組み始め、悩み続けてやっといくらかの意見を持ち始めた。

 

それは手前味噌かもしれないが、最低限の礼儀だと思う。

 

その証拠に世間の人は本当に節操がない。全て思いつきの臆見だから、一年といわず、半年も経てば正反対のことを言い立ててけろっとしている。

 

私など、そういう変わり身にふれるたびに狐につままれたような思いをするが、当人はどこ吹く風で、常に至当なことを言っていると思っている節もある。

 

そういう態度、生き方になんのつながりももたず、どこに出自を持つわけでもない考え、それは意見じゃない。そして、意見でない以上、そんなものに付き合ってやる務めは誰にもない。

 

有り体に言えば、そういうものは与太話というので、まともに聞けば馬鹿をみる。くらくらしてくる。

 

夏になれば、「日本の夏はあつくてかなわん、冬の方がまだましだ」といい、冬になれば「日本の冬は寒くてはかなわん、夏の暑さが恋しい」というような独り言に過ぎない愚痴。

 

国民が得意気に語るその御意見というのは、十中八九この類いのものに過ぎない。

 

そしてそんなことにまともに向き合うとすれば、それは当然季節ごとに新しく家を建て直すしかない。

 

だからこそ、我々愚かな日本人たちは、コロナに対しても新しい家を建てては崩し、建てては崩しと一貫した了見の伴わない対策を繰り返しているのである。

 

それは決して政治の無能ではない。いや、政治の無能には違いないが、それはそのまま国民の無能なのである。