小幡敏の日記

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舗装された世界を拒否する

立ち寄ったコンビニに片方の腕の手首から先がない店員がいた。

彼はその棒状になっている方でレジ袋の口を開き、誠に器用に品物を詰めて客に手渡す。

客の方はといえば、これは仕方のない反応としてその手に一瞬気を取られ、目を奪われるわけであるが、そんなことをしている間に彼は鮮やかに作業を終え、客は出口へと向かうことになる。

 

こういっては人でなし扱いを免れないが、あれは言うなれば見せ物にすらなる芸である。

はっとする、ほうと感心する、ああと嘆息する、思わず喝采したくなる、それだけの日常性の破れを、彼は腕の先の虚空だけで生み出している。

 

これで思い出したが、たしか中学にあがった頃、たまたま時計かなにかを買いに入った上野の商店主が、サリドマイドだかなんだか、腕の先が二股にわかれておって、とりの鶏冠のような、ぶよぶよとした手をした男であった。

 

私はそれと気付かず彼に品物と代金を出したが、その刹那、私の手は彼の二本の手に包まれ、掌には何枚もの硬貨が握らされていた。店主は今思えばかすかに悪戯っぽい笑顔で私を送り出したように思う。

 

私は呆気にとられ、なんだか化かされたような気がしていた。あの手はいったいなんだったのか。幼児のようにふにゃふにゃと柔らかく、また温かった。骨がないようでありながら、硬貨を渡すのに些かも不安は引き起こさなかった。見事としかいいようがない。私はその男を魔法使いのように思い、また、普通人よりもはるかに生の味を知っているのだと独り合点したのを覚えている。

 

私はこの手の経験を非常に大切に思っている。誤解を恐れずに言えば、彼らのような社会の外側を生きる人間の鬼神のようなおそろしさ、不気味さ、胸をざわめかせる日常の乱れを幼い日に経験することは、我々の視座に豊かな経路を付加するに違いない。

 

彼らには私などが気安く近付いてはならない何がしかのものがある。彼らは普通経験しない苦しみや懊悩、また喜びまでも潜り抜けて今あそこに立ち、座っているのである。私は彼らに感心し、心の内で拍手することでしか向き合えない。

 

ところが、こういう我々をざわめかせるものは病的なまでに遠ざけられてきた。いわば世界は舗装されてしまった。私はたまたま出くわし、たじろぐこともできたが、もはや見世物小屋は畳まれ、廃人は塀の中に繋がれ、ルンペンさえもガード下から掃き出されてしまった。

 

世の中あまりにも綺麗になりすぎた。だが、こんなもの、それこそキレイはキタナイのだ。私は世間の偽善を呪う。あれほどキタナイキレイなものを、見ないでいることの醜悪さよ。舗装された社会をまっすぐに歩いてそだった人間ほど奇怪で醜悪な奇形児はいない。彼ら博愛的で善良なふやけた現代人が、いかに差別的で利己的な偽善者の群れであるか。彼らこそ危険な全体主義者に接近している。多様性を語る人間が如何に品性を卑しくしていることか。

 

世の中、予め舗装してはいけないこともあろう。たとえば、いじめに対する風当たりは近頃異様な様相となっているが、経験から言えば、いじめと一口にいっても色々だったではないか。単に愚かしく、また不道徳ないじめもあったが、走る前に転んで怪我をする、そんないじめもあった。そういう怪我は、我々を鍛え、生き方を教え、教師以上の存在ですらあった。

 

それを初めから大人の手で圧殺することほど愚かなことがあるだろうか。子供の喧嘩に親が口を出すなというのは私が小さい頃はまだ少しは言われていたけれども、それはこういう事情に発したと思われる。子供が育つ道から困難を取り除いてはならない。

 

もちろん、それらは全て程度の問題でもある。だがしかし、昨今のやり方は、たとえば怪我の恐れがある柔道はやらせるな、というがごとき絶対安全主義なのであって、これでは人はそだたない。

 

思えば、今般のコロナ騒ぎで『絶対コロナにはかからぬようにすべく自粛しなければ』という反応が強いのも、こういうところに根をもっているのではないか。

 

してみれば、私は彼ら社会の外側の人間に期待しているのである。それは障害をかかえた者でなくてもいい。それこそ、ミュージシャンでもなんでもいいのだ。そんなもん、へでもねえ。生き死にの前に、俺の生き方があるんだ。死ぬことについてはその後に考えればいい。彼らこそ、そう喝破できる資格があるのである。