小幡敏の日記

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自分では暗いつもりはないんですがね

先日のシンポジウム後の懇親会で、複数の参加者から希望がない、もう駄目なんだと思うと言われました。

 

そう思わせた責任の一端か二端は僕の物言いにあったのかもしらんから責任は感じます。

 

が、こりゃ無責任のようですが、僕はそういう物言いは好みません。なんといったって、もう駄目なことくらい分かりきったことではないか。

 

先日訪れた店の営業情報がインスタグラムでしかみれんというからやむなくアプリを開いたところ、インスタグラムへの投稿画像がバッと出てくる。

あんなものみれば、ああもう人類も仕舞いだなと思います。

 

とはいえ、そんなことをいっても仕方がないではないか。

 

人の人生ひとつとっても、結末をしったらやり切れないことばかりだ。頭が悪い、器量がわるい、取り立てて才覚と言えるものはまるでなし、生まれも悪けりゃ金もない、長ずれば貧乏し、醜いかかぁをもらって馬車馬のごとく働いて、末は病気か事故かなんかで死んでしまうと、そんな人生とわかっていたら誰が進んで生きるものか。

 

僕とて、小学生のころからこんな性格ですから、若い者をみればけしからぬ、老人をみてもまたけしからぬと思って生きてきました。するとまあ人が喜ぶとき、それは試験の合格でも結婚でもなんでもいいですが、僕はそんなときにも常に不満でしたよ、世の中こんなに悪いのに呑気に笑っていられるかと思っていた。親にとっちゃ可愛くない子だったろうから誠に申し訳ないが、事実そうだったことは今更争えない。

 

それでもなんとか生きております。そら毎日退屈ですから、僕など戦争になればさぞ愉快だろうと思いますが(本当はそんなことも期待しておりませんが)、現実はそう愉快なことなどおこりません。

 

それもよいではありませんか。僕はこの世界を呪いますが、そんななかにも愛するものはある。腐れているかもしれない種を蒔いて水をやるのだって、案外楽しいものです。

 

耳障りなのは、「その種は腐っているのに無駄なことを」とさかしらに水をさしてくる通俗悲観論者の方です。

そんなことはわかっとる。しかし、俺は明日のことなど知らないでずっと生きてきたし、これからもそうするのだと、言えることはそれくらいのことですがね。

 

負けることなど分かっている、分かってはいるが、負けると思っているのではない。そこんところがわからねえんだな。

 

そういえば懇親会参加者の一人、これは女でしたが、彼女から開口一番「あなたは女が嫌いとのことですが」と言われてこちとら閉口しました。そんなこと、どこかで言ったのかしら。

そう言われればそうに違いないのですけども、単に女が嫌いかと言われるとうんと言えないところもある。

 

なんですかな、それこそ負けると分かってはいるが負けると思ってはいねえんだと、そういうところを理解してもらえる女があまりいなもんだから女がいやなんでしょうな。しかしながら、近時これは男にも理解してもらえんですから、結局はみんな揃って困ったもんだと、そうなるわけだ。人間がそもそも嫌いなんだと。

 

あいや、また暗いと言われてしまいますわ。

 

 

一応弁明しますと、僕は女が嫌いというより女に嫌われて男と仲良くやってるくらいのあり方が好きなんです。別に女に恨みはありませんが、女がこう強くなって男の方がそばからその軍門に降っていくのを見ていれば、そら女のほうに不満も溜まります。

 

女に期待するのは、そういうだらしない男は踏みつけにしておって、女は女の生き方を守ってもらいたいと、それでたまに男と喧嘩しながら仲良くやっていきましょうよと、そういうことに過ぎません。

 

さて、そんな料簡の女がどれほどいるか、その点については全く自信がありませんがね。