小幡敏の日記

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頑張れ母校

といっても甲子園のことではありません。

 

人から我が母校麻布の進学実績が振るわなかったとききました。

麻布は一学年300人で、僕の在校した頃は東大にいくやつが現役だと年60~70人、浪人もあわせて百人行けばまあ豊作といった案配だったと思います。僕の代も90人強だったような。

 

それが今年は現役40名ほどだそうで、これは大変不作だ。

 

東大への進学実績などどうでもいいといえばそれまでですが、これは大変大事です。麻布は悪漢天国みたいな学校で、所謂進学校でありながら受験指導も進路指導もまるでやらないところですが、それでも許されてきたのはそれなりの隅に置けない進学実績があったからです。

 

校長が『うちは東大にいくことなんか気にしてない』といくらいったところで、そして生徒のほうも仮にそういう骨が残っていたとしても、親の方ではそうはいかない。麻布は開成などとは違い高校からの編入がありませんから、入ってくるのはみな小学校出たての子供です。これが学校選びをする上では親が決定的で、僕がその時分だった20年近く前ですら、『麻布なんかに行かせたらどうなるかわからん』という親はいました。うちのように勝手にしろと放し飼いにしてくれる家ばかりではありません。

 

するとまあ、心配性な親をすこしでもなだめすかして校風を守りながら優秀なやつを集めるにはやはり目に見えるそれなりの進学実績が不可欠になります。だから僕は在校時から進学実績を非常に気にしていた。ただでさえ『凋落』を言いたがる雰囲気がありますから、なんとか今の流儀を守れるくらいには頑張ってやつてくれと願っていました。

 

学歴なんていうものは僕は足鰭みたいなもんで、それが大きければ多少泳ぎが楽だというくらい、ばた足だって海はわたれるといつも言っていますが、それでも麻布だけは、やはりこういう国に残っていて欲しいと思います。

 

岸田文雄みたいな連中で埋め尽くされたらこれはもうお仕舞いですから、現役麻布生諸君、君らはそんな気毛頭ないだろうが、御国のために東大くらい行ってみてはくれんか。麻布生が本当の馬鹿しか居なくなったら、それこそ君らも寂しいだろう。馬鹿をやるためにも、三分の一は賢い馬鹿になってくれと思います。

大島流罪の西郷

島津久光の怒りをかって大島に流された西郷隆盛橋本左内の処刑等、幕府弾圧の報に触れて大久保らに送った手紙の中には次のようにある。

 

橋本まで死刑に逢ひ候儀案外悲憤千万堪え難き時世に御座候 此先生江戸を相逃げ候ては何の策も出来兼ね候はん 願はくは此一ケ年の間豚同様にて罷在候故何卒姿を変へて走り出たく一日三秋にて御呼返の期相待居候

 

大西郷でもこの感慨、匹夫の身ならなにをかいわんや。

どうも若者は好かない

最近の若い者は、というセリフは唇を離れた瞬間から色褪せ滅びるものですが、どうしてもそういう考えになります。

 

僕は三十で、どうやら後輩らしいものも出て来ましたが、むしろ12、3の頃から常に思い続け、言い続けてきたことなので、自分の年齢とはほとんど関係のないことのように思います。

 

なんでこんなにも不快なのかと思って彼らの話を聞いていると、やはり彼らは根拠のない自信家であり、世間や年長者をなめきっているからというのが感情としては大きい。

 

いや、それが若者の本分だろうといわれてしまえばそれまでだし、僕としても若者たるもの大いに反骨心を抱いてくれと思いますが、どうも、今の若者たちはうちに甘え多く、その引け目のせいか、表向きは極めて従順であり、よく言われるようにお利口なのです。虐げられる恐れのない反骨心など、ブスの色気より目障りなものです。平和で民主的な戦後日本で反戦や反権力を『闘士』面して叫ぶ人らを思い浮かべて貰えば幸いです。

 

それはそうと、そういう彼らの器用で低温な反抗心のせいで、彼らに対する大人の方も、変にほだされるというか、調子をはずされてしまって、えらく遠慮がちになる。そうなると反骨心も壁を失って、ただの思い上がりと無責任とに成り下がります。

 

正直言って僕は老人が頼みにならないから若いものに期待しようと、そういう気にもならない。生まれたばかりの赤子や幼児ならともかく、一人前といった顔の若者諸君とは話すことさえ億劫です。

 

するとまあ当然孤立するわけですが、考えてみれば僕は生涯一度も世代に帰属意識をもったことなく、時代に親しみを覚えたこともなく生きてきましたし、連帯する仲間にもそれを属性として重く見る必要はないでしょう。

 

とにかく頭を高くして生きていると疲れるものですから、要らぬ労はとらぬに限ります。

ほら、ここはこうして頭を下げておくんだぞ、と言われるところには近づかぬがよろしい。そうはいってもたまに出くわしてはお付きあいさせられますから、そういうところに背を向けて自然に呼吸が出来る場所と友人とを見つけておくことです。

 

友人の方がえらく少ないもんで心細い限りですが、

僕らの日本人はどこへ?

昨晩一番古い友人、といっても、僕には友人はこの一人しかないわけですが(同期同窓は他にもありますものの)、彼と酒を飲みながら電話していておりました。

 

携帯をみると一時間半ほど話していたようですが、ほとんど記憶にないほど痛飲してしまいました。ただ、冒頭私が『俺は最近日本人がわからぬ』というと、彼もそれには同意し、『それに従うか否かはともかく、昔から日本人の気質性向には明るいと思ってきたが、それがどうも心許なくなってきた』と述べました。

 

それを受けて僕が『ああ、そういうことは確かにある。日本人というものがどんどん得体の知れないものになってきた。こういえばああ言うだろう、ああすればこう反応するだろう、というのが昔は容易くわかったものだが、ここ何年かはそうはいかない。外人のほうがよほど話が通じるくらいで、日本人がどんどん疎遠に思えてくる。しかしこういう気配が自覚出来るほど確かになってきたのは、ちょうど我々が学部にいたころ(十年ほど前)ではないか』と言うと『それはそうだ。傾向としてはあったものがその頃からだいぶ加速したかに思われる』とのことでした。

 

ひとつ断っておきますが、彼も私も若かったとはいえ、進歩のない人生を送っておりますから、単に『世の中を知った』のではないということです。ただ青年の早合点や夢想が世間に裏切られたのであれば、なんのことはない、さっさと順応するしかない話です。

 

それを前提に言わせてもらえば、要は我々の愛する頑迷で愚劣で野卑な日本人が消えたということです。かわりに表れたのは、やわらかい、りこうで物わかりのよい日本人でした。僕らは決して彼らを愛せない。いや、彼らが日本人だとはどうしても信じられないのです。

 

『そんなことは知らぬ。我々健全な日本人は前進する、貴様らは懐古趣味の足手まとい』だと言うのであれば、僕らには返す言葉もありません。

 

ただ、僕らはただ昔を懐かしむほどお気楽でもないし、そんなことなら要らぬ苦労を選ばないということだけは言いたい。みたいものではなく見なければならないものを見る、やりたいことよりもやらなければならないことをやる、そういうことを積み重ねて出て来た実感が、まったくの取り越し苦労であるものでしょうか。

 

 

 

テッパチ!

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/309083

 

知人から教えてもらいましたが、陸自を題材にしたテレビドラマが不人気だということです。

 

僕は自衛隊によるメディアとの安易で場当たり的なタイアップ企画には一貫して反対ですし、こんな薄ら寒いものが見ていられないのも当然、むしろ自衛隊の本義を見失わせる害しかないと言い続けています。

 

が、そのように言うと決まって、『レベルを大衆にあわせてまずは露出しないことには仕方がない』と返されます。それは、極めて戦後日本人的な考えでしょう。その裏側には、『そんなこといったって仕方がないじゃないか』という、例の淡白な冷笑がこびりついています。

 

そうすることによって彼らは、憲法を既成事実化し、日本に奇形の自衛隊を温存し、あるいは中国韓国に技術供与して自国の産業を壊滅させたのも、みんなこの微温的な骨無し精神に起因するといったら言い過ぎでしょうか。

 

いや、僕はそう思いますね。だからこんな下らないドラマがこけるとざまあみろと思う。

 

貴様ら俺に言ったよな、そんな堅苦しいことを言っても始まらない、もっと柔らかいアプローチが必要なんだと。

 

このざまはなんだ。アホアイドルまで引っ張り出して、いい面の皮だ。偉そうに説教たれるなら、是非その柔らかいアプローチで成功してもらいたいものだ。

目先の成果を追求するなら、成果があがることには絶対の必要がある。そうでなければ、こんなものは日本人の軍事観の更なる陳腐化にしか繋がらない。

 

やるならやるで、レンジャー訓練にでもぶち込んでやればいいんだ。本失敗が示すものは、防衛省自衛隊も、テレビ関係者も、潜在的視聴者たる国民も、皆揃いも揃って不真面目だということである。

 

そして、不真面目な民族は必ず滅びる。

フィールドオブドリームス

妻子が留守なもので、なんとなしにフィールドオブドリームスを観ましたが、やはり野球はいいですね。米国のもので手放しに良いと言えるのはこいつだけです。本当に良い競技だ。僕は4歳か5歳からサッカーをやっていたせいで野球はキャッチボールくらいしかやったことがないが、なぜか野球を見ていると童心に帰る。サッカーではそういうことはありません。サッカーファンには悪いが、あれはだいぶん味わいのないスポーツだと思う。僕はサッカーを遊びとはいえやり、一頃はプレミアやセリエAをよく見ていたが、これはどうも低級に思える。詰まらないのではないのです。ただ、なんというか、野球が囲碁将棋ならサッカーはオセロなんですな。そういうところがあるのではないかとおもう。もちろん、僕も今でもサッカーは見ますから、それはそれでいいのです。ただ、野球というものが実に面白い、というか、我々の純なところと親しみやすいのだと、そういうことだけは、野暮だと思いつつ、やはり言いたくもなる。

 

それはそうと、朝日新聞紙上で山田洋次が、

 

男はつらいよ」で寅次郎はよくインテリをからかっていましたが、彼は一方でインテリを認めていた。だからこそ、からかうことができたんです。ところが、今は世の中全体が反知性主義になってしまった。不幸な時代です。

 

というようなことを言っていたそうだ。

まあそれはそうだろう。が、どうもインテリの山田洋次先生にいわれるとうんと言えないところがある。知性、それも僅かな人間のうちに宿ったなけなしの知性を溶出霧散させたのは他ならぬインテリ先生諸君ではないか。知性の安売りは、ショッピングモールかスーパーマーケットのように人をおだてながら野蛮化、幼稚化させた。

 

そういうてめえはと、これまた野暮を言うつもりはないが、少なくとも僕はそういう反知性主義を生んだものこそ日本の知性主義者であると思っているし、彼らが戦前への反動からあたかも万人に高尚なる知性が宿るものだと、ヒューマニズム大義の下に生きるものこそ万物の霊長たる人間であると、そういう風にてめえの情けなさを置き去りにしてセールスマン顔負けのおべっかを重ねたおかげで、褌一丁でランウェーにあげられた我々一同がどぎまぎする羽目になったと、そしてそのあとにきたのは不似合いな土俵上での醜い内輪ぼめと八百長試合だったと、そう思っています。

 

知性なんて万人に与えられたものじゃないんだ。そういう当たり前の所から、我々民族いかにいくべきか、個人いかにいくべきか、そういう地に足ついた格闘がついに果たされなかったと、そのことを反省すべきではないかと思います。

 

山田洋次先生の言葉を借りるなら、それこそ寅さんのごときインテリを認めながらからかうことのできた民衆の知性、それはインテリ諸君が戦後高らかに唱道した近代市民たるに相応しい知性などよりよほど立派なものだったということです。

 

人はもっと醜いものに美しさを認め、馬鹿を阿呆と言わず、ただその生命の潔さ、逞しさを称えればいい。

 

知性なんざ、番頭まかせにしておけばよい。主人と奉公人に必要なものは、ただ正直であること、そして、敬虔であること、それに尽きる。それは決して反知性主義ではない。ただ、知性は万能ではないんだと、知性は我々の生活を必ずしも向上させないんだと、そういうことが言いたいだけである。

 

人は賢くなる前に、誠実朗らかでなくてはならない。

日本人の心性

さてさて、安倍晋三氏を撃った某氏の動機が明らかになるにつれ、日本人が安堵する様子が目に付きます。

 

日本において嫌われる宗教が悪者になってくれて、さぞかし安心したことでしょう。これがもし政治への不満を背景にでもしていたなら、日本人はこれを決して消化できなかったはずだ。いつものように暴力はどうのと与太を並べたに違いないのです。

 

それはそうと、私が不満なのは、これに乗じてちゃっかり政治不信を表明する輩です。

 

安倍氏はともかく、政治家は腐っている、国民のために働く政治家は一体どこにいる、国民は今こそ清廉で公僕に相応しい人間を求めている、そのように言います。

 

何を言うか日本人。私は知っている、日本人は清廉であることなど露も目指していないことを。

 

私は思います、皆が皆清廉であることなど期待すべくもない、しかしながら、そういう人間がいたならその人を称え、また、それに連なる国民として、少しでもそうあろうと努力すべきだと。

 

しかしながら、私はいつだってそういう思いを他ならぬ日本人の手によって妨げられてきた。私は不完全ながらも、少しでも正直に、少しでも身綺麗に生きようとした。然るに、それを日本人諸君はどう扱ったか。彼らは口を揃えて言った、なに、真面目に生きるのも気が滅入る、もっと肩の力を抜いて醜いものにも理解を示せと。

 

まるで正直に生きることが義理人情が分からぬとでもいいたいかのように。

 

全く、堕落とはこのことではないか。彼らにとっては、女を辱め、恥を恥とも思わぬやり方こそが一人前の大人の流儀らしい。

 

そんなものは願い下げである。一ついえることは、斯様に自堕落な国民に相応しいのは、同様に自堕落な政治家であり、無為無策の政治であるということだ。

 

嘘をつかず、ただ公益を思って生きることさえ疎ましく思うのが日本人であり、そんな自堕落な民族は救われなくとも当然ではないか。