小幡敏の日記

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フィールドオブドリームス

妻子が留守なもので、なんとなしにフィールドオブドリームスを観ましたが、やはり野球はいいですね。米国のもので手放しに良いと言えるのはこいつだけです。本当に良い競技だ。僕は4歳か5歳からサッカーをやっていたせいで野球はキャッチボールくらいしかやったことがないが、なぜか野球を見ていると童心に帰る。サッカーではそういうことはありません。サッカーファンには悪いが、あれはだいぶん味わいのないスポーツだと思う。僕はサッカーを遊びとはいえやり、一頃はプレミアやセリエAをよく見ていたが、これはどうも低級に思える。詰まらないのではないのです。ただ、なんというか、野球が囲碁将棋ならサッカーはオセロなんですな。そういうところがあるのではないかとおもう。もちろん、僕も今でもサッカーは見ますから、それはそれでいいのです。ただ、野球というものが実に面白い、というか、我々の純なところと親しみやすいのだと、そういうことだけは、野暮だと思いつつ、やはり言いたくもなる。

 

それはそうと、朝日新聞紙上で山田洋次が、

 

男はつらいよ」で寅次郎はよくインテリをからかっていましたが、彼は一方でインテリを認めていた。だからこそ、からかうことができたんです。ところが、今は世の中全体が反知性主義になってしまった。不幸な時代です。

 

というようなことを言っていたそうだ。

まあそれはそうだろう。が、どうもインテリの山田洋次先生にいわれるとうんと言えないところがある。知性、それも僅かな人間のうちに宿ったなけなしの知性を溶出霧散させたのは他ならぬインテリ先生諸君ではないか。知性の安売りは、ショッピングモールかスーパーマーケットのように人をおだてながら野蛮化、幼稚化させた。

 

そういうてめえはと、これまた野暮を言うつもりはないが、少なくとも僕はそういう反知性主義を生んだものこそ日本の知性主義者であると思っているし、彼らが戦前への反動からあたかも万人に高尚なる知性が宿るものだと、ヒューマニズム大義の下に生きるものこそ万物の霊長たる人間であると、そういう風にてめえの情けなさを置き去りにしてセールスマン顔負けのおべっかを重ねたおかげで、褌一丁でランウェーにあげられた我々一同がどぎまぎする羽目になったと、そしてそのあとにきたのは不似合いな土俵上での醜い内輪ぼめと八百長試合だったと、そう思っています。

 

知性なんて万人に与えられたものじゃないんだ。そういう当たり前の所から、我々民族いかにいくべきか、個人いかにいくべきか、そういう地に足ついた格闘がついに果たされなかったと、そのことを反省すべきではないかと思います。

 

山田洋次先生の言葉を借りるなら、それこそ寅さんのごときインテリを認めながらからかうことのできた民衆の知性、それはインテリ諸君が戦後高らかに唱道した近代市民たるに相応しい知性などよりよほど立派なものだったということです。

 

人はもっと醜いものに美しさを認め、馬鹿を阿呆と言わず、ただその生命の潔さ、逞しさを称えればいい。

 

知性なんざ、番頭まかせにしておけばよい。主人と奉公人に必要なものは、ただ正直であること、そして、敬虔であること、それに尽きる。それは決して反知性主義ではない。ただ、知性は万能ではないんだと、知性は我々の生活を必ずしも向上させないんだと、そういうことが言いたいだけである。

 

人は賢くなる前に、誠実朗らかでなくてはならない。