小幡敏の日記

評論を書いております。ご連絡はobata.tr6★gmail.comまで。(☆を@に))

自衛隊さんありがとうで済ませちゃいけない

災害派遣があると毎度この流れですが、多少の批判めいたものを塗りつぶす形で『自衛隊さんありがとう』が叫ばれて、国民の中にある曖昧な軍民関係に対する潜在的な不安をかき消すわけです。

 

寝たきりにでもなって初めてしおらしくなる老人みたいなもので、こんなもので万事済むとは思わないほうがいい。

 

もっとも、災害派遣に従事する隊員一同が一生懸命に取り組んでいることを否定するつもりはないし、彼らが人助けを通して幾ばくかの充足感を得られることもまた事実ではある(実任務を持たない陸自隊員にとって災害派遣は実感を伴う唯一の任務である。なお、平素陸自隊員は、まったくのごっこ遊びの中で虚ろな気分の中にあることも認識すべきだ)。

 

しかしながら、それで『施す者』と『施される者』の関係が良好に保たれているのだと早合点してはいけない。

 

繰り返しになるが、自衛隊にとって災害派遣は主任務ではなく、忙しく人手不足の彼らにとっては『厄介事』である(現に派遣されている彼らが嫌嫌やっているのだと言いたいのではない)。

 

何が言いたいのかというと、災害派遣はあくまでもオマケであるのだから、そんなところでだけチヤホヤされても、彼らの傷めつけられている自尊心が癒やされるものではない。

 

言うなれば、普段声もかけてもらえない不細工が、引っ越しのときだけ力持ちだとおだてられても、彼のロンリーハートは癒えないということだ。

 

現にこうやって自衛隊の活躍が認められたって、現職の自衛官の多くは依然として腐っている。今だって、やってられん、辞めたいという声が届く。

 

彼らは声をあげないが、現状の自衛隊の扱われ方に満足しているわけでは決してないのだ。この国の軍人に対する取り扱いは、『兵隊さんは神様です』といっていた戦前からずっと一貫して低い。貧乏人にひかせる貧乏くじであり続けている。それを許して平気な顔をしている自衛隊高官は万死に値するが、国民の方もいい加減に気付かねばならない。

 

災害派遣程度だから、事は丸く収まっているのであり、これが文字通り命のやり取りになれば危ういものだ。僕は自衛官の中に一般人以上の善良さをたしかに認めるが、彼らがこれまで散々不義理を尽くしてきた国民のために命を投げ出して戦うとはとても思えないし、それを期待することは酷なことだと思う。『税金で養われているんだから』云々というような無責任なやじで解決できる問題ではない。(だいたい、では時給千円の警備員が給料をもらってるからといって群れなす強盗団に立ち向かえ、それが当然だと言えるのか。今の自衛隊中共露助と戦えというのはこれに等しい)

 

こういうときこそ、自衛隊高官が腹を括って発言しないでどうする。盲たる民の方はしらんが、彼らには毎度実に腹が立つ。馬鹿を見るのはいつも現場の隊員ではないか。

 

 

自衛隊は便利屋じゃないと何度言ったらわかるんだ

新年初出社ということで会社に行くと、同僚の一人から『なんで自衛隊はもっと早く被災地に行ってあげないのか』と言われた。

 

なぜ僕がそのことで責められなればならないかは知らんが、取り敢えずは『災害支援は警察消防の領分で、自衛隊の本来業務ではない上に、都道府県知事からの要請を受けて出る必要もある。そもそも先遣が出るのも遅れた印象はないし、自衛隊が非難される覚えはない』と弁護すると、

 

『小牧なんか近いんだからあそこから支援に行けばいい』

 

とおっしゃる。実任務を持つ、おまけに航空基地の小牧からどうやって人数を供出させるつもりなのはしらんが、その時点でだいぶ腹が立っていたから説明することなんか放り出して、

 

『そんなら言いますが、今でこそ困ったときの自衛隊さんで早く来て手伝え、風呂を沸かせ、水を配れと言うが、災害派遣に出ることさえ国民の顔色を伺わなければならない状態に自衛隊を置き続けていたあなたら国民に、自衛隊のケツを叩くようなことを言う資格がありますか。北陸の被災民は気の毒だが、僕は日本人がいくら困ったって、そら国民さんの都合であって自衛隊にゃ関わりはねえんだとさえ思いますよ』

 

と答えた。

するとまあ飼い犬(自衛隊)に歯向かわれたとでも思ったか、やや気色ばんで、

 

『でも自衛隊がきたら安心すると思うんだけど』

 

というから、

 

『相続が近くなって優しくする不孝者みたいなことをしておいて、困ったときだけ持ち上げたって自衛隊じゃ迷惑だと思いますね。何度も言いますが、自衛隊は国防のための組織で、災害派遣のためにあるんじゃない。国防組織としての命を自衛隊に吹き込んでやらない限り、自衛隊に変な期待をかけるのは不義理ですよ』

 

といって御仕舞にした。

国民の方で自衛隊に何某かの期待をかけるのであれば、『これまではむごいことをした。勘弁してくれ』と自衛隊に謝り、まともな存在根拠と待遇を与えてやるのが先である。

 

自衛隊は真面目だから眼の前の被災民を律儀に助けるのだろうが、国民の方に少しくらい注文をつけたらいいし、自衛隊にはその資格がある。

 

それで日本の連中が『何を生意気な』、『こんなときになんだ』とくるのであれば、その時こそそんな国民は捨ててやればいい。自衛隊に国を背負って立つ気概があるのであれば、国民と戦うくらいの意気がなければ駄目だ。

 

 

 

箱根駅伝

走るのは何より嫌いですが、箱根駅伝は法政の徳永が痙攣した脚を叩きながら走っているのを見てから好きで、大体毎年見物しています。

 

特別贔屓の大学があるわけではないものの、駒澤大八木監督が好きなもんですから今年からどうしたものかと思いつつ、青学が嫌い(監督)ですから是非駒澤に3冠をとってもらいたいと応援しておりました。

 

残念、昨年の甲子園慶應に続き、軟派にやられてしまった感があります。

 

大八木監督が嫌いな人とは絶対にわかり合えない気もしますが、青学監督が好きな人ともきっと決して折り合えないでしょう。

 

今年はそういうこだわりから離れて生きるつもりでしたが、新年早々、そんなことは不可能事だとあらためて思いました。

 

外野から勝手なことを申せば、また大八木監督の駒澤が優勝するのをみたいものです。

表現者クライテリオン1月号

表現者クライテリオンも、創刊から丸六年とのことで、宗教特集が初めてというのがむしろ意外な感じがしますが、この特集に久し振りに寄稿したのでお知らせします。

 

宗教は語れば語るだけ当の御本尊が逃げていくようなところがあるので、これを書くにはだいぶ苦心したのですが、付かず離れず、遠巻きに宗教に言及することで、なんとか宗教を殺さぬよう努めたつもりです。(とはいえ、やはり一定程度害してしまいましたが)

 

あと、中田考氏のインタビューがところどころ面白く、やはり宗教を知らない日本人が思いつきで宗教批判なんてしてはならないと、改めて思います。

(そういえば柳田國男が、神仏を信じぬ者に宗教を説くことほどあほらしいことはない、というようなことを言っておりました)

 

いずれにせよ、日本人が駄目になったことの一端には、宗教性の喪失が確かにありますから、本特集は意義深いものがあると思います。

 

私の寄稿はともかく、是非お読み下さい。

 

大岡昇平について

昨日早稲田大学で國策研究會主催の浜崎洋介氏講演会に出向いたが、講演後にいくつかあった質問がどれもまあ無礼なものばかりで、俺はやっぱりこういうのは出来ねえな、と改めて思った。

 

もっとも、これが政治運動ならば、悪魔でも気の良いやつとは取引してやろうかというくらいには丸くなってきた三十代だが、言論活動となると、なかなかそうはいかない。私はあくまでも、純粋にこれをやりたいから、信頼し合える相手以外とはとても協同できず、それ故にいつでも一人か少数の仲間しか得られないわけだ。それじゃあだめだとわかっていても、こればかりは性分だからそう易々と変えられるものでもない。

 

それはそうと、帰りに先般発売のクライテリオンを読んでいたら、巻末に件の浜崎氏が原稿を寄せていて、私の本に言及しておられる。

話は大岡昇平に向かうが、ごく簡単に言うと、

私「大岡は戦争の渦中でもかまととぶっていやがる」

浜崎氏「批評的態度を崩さない大岡の視野には小幡の求める日本大衆の生き方をも含まれている」

ということになろうが、これについて少し答えておきたい。(反論ではなく、立場表明として)

 

まず、さすがは浜崎氏というところで、あの本で大岡を引いたところは、私自身書きながら不安だった箇所である。講演会ですらそうだったが、一般の聴衆ないし読者は、その多くが粗探し、揚げ足取りで向かってくるから、書いている方は、「ああ、これだと絡まれるな」「あの手合いはこう難癖付けるな」と思いながら、註をつけたり説明を付したりしてみる。しかし、こうしていると文章が随分ぎこちなくなる、汚くなる。色気や邪念が混じるとよくは書けない。子供の絵が下手でも味があったりするのはそういうことで、彼らには迷いがないから未熟なりに統一調和した良い絵が描ける。オトナはその瞬間瞬間で無駄な意識が働くからこれが出来ない。それで下手な絵を描き、汚い文章を書く。

 

大岡の引用箇所は、初め書いたのが、そのまま本にもなっている。実はそのあと、色々と大岡を弁護というか、私の保身のために大岡への批判的態度を幾分薄める説明を書き足したが、汚らしいということで削除した。都合のよい言い逃れかもしれないが、やはりそれはまずかったのかと思う。あれではやはり、大岡をけなしているようで、今ではどうにも済まない気がしている

 

実は私も初めて立ち止まってつき合った文学作品が大岡の「野火」(中学の卒論で扱ったため)だったこともあって、大岡の『文学』(≠戦記)が持つ豊かさに対して、幾分は理解があるつもりであり、それこそ大岡が批評的態度に「居直って」いるとまでは思っていない。

 

ただ、それでもなお言うのであれば、やはり私は大岡があまり好きではない。しかるに、浜崎氏の言われるとおり、彼の批評家の眼というものは並大抵ではない。軍隊組織の中であくまでも個人で居続けるということの困難は、尋常一様の努力でなしえるものではない。単なる意地で出来る事ではないのだ。今時のリベラルなんて絶対に出来やしない。往事の軍隊とは比べものにならないほどぬるい自衛隊にあってさえ、個人であろうとすることは、相当の覚悟と鍛錬を要することであり、それを完遂している者などほとんど居ないと言って良かった。 

 

だからこそ、私は大岡の異常な努力とそれをなし得た才能、そしてそれがあの作品群として結実したことを讃え喜びたい。日本にとって、否、日本軍にとってそれは、今となっては他に代えがたい記録であり、戦争文学の金字塔であるとさえ思う。

 

だが、たとえば安吾をして批評が生き方になっているのはあいつだけだと言わせた福田恆存であっても、はたして批評の眼しか持たなかったのであろうか。それこそ、横丁のそば屋でかき揚げを頬張っている時もかれの眼は批評家のそれであったか。いや、そば屋の親父とひと言ふたこと言葉を交わす時も、その眼は親父の心を批評家の眼で見ていたのか。そういうことが気にかかるのである。

 

或いはそうだったのかもしれない。しかし私はそれじゃああんまりさびしいじゃないかと、そう思ってしまうくらいには愚鈍に生まれついている。しいて言えば、彼は戦争と軍隊の中で否が応でも大衆同胞とともに生きることになった。そこで同胞とともに生死をともにし、運命を同じくしてもなお、大岡が批評家であり続けた、引用箇所で言うなら、「偽りの感情」というようなことを言いたくなるようであるなら、私は非常に寂しい気がするのである。私自身の中にもある大岡的気質を思う時(強度は遙かに劣るとはいえ)、同胞につながる、同胞と混交する経路がまったく絶たれてしまうような気がするのである。それがいたたまれないからこそ、大岡のあのある種の潔癖、よく言えば誠実、悪く言えば可愛気のなさ、浜崎氏の言葉を借りれば「照れなくて良い照れ」が嫌なのだ。

 

言い換えれば、大岡への違和感というのは、自己の不安の裏返しでしかない。何なら、大岡の方が正しいとさえ思っている。言うなれば、アカデミズムに対する感情とも似ている。ああいう在り方は必要である。間違っているとも思わない。しかし、本を食って生きているような顔をするアカデミック人士をみると、私は「食えないな」と思ってしまう性質なのである。いずれにしても、いい加減なのは私の方で、反省すべきは私であるのかもしれないが、もう少しこっち側の可能性を広げられるんじゃないかと思って、今迄どうにかやってきてはいる。

 

 

それはそうと、浜崎氏も問題にしていた末期の言葉。これは非常に興味を引くテーマで、私も「天皇陛下万歳」「お母さん」などを、それを言わせた環境や条件などと合わせて自然な位置づけを与えたいと常々思っているが、いかんせん、末期の言葉を記録しているのは必然的に本人以外の人間であり、それ故にこの詮索には困難がある。

こんなところではないかというあたりはあるが、それを根拠づけるほどの事例が足りない。いずれ取り組んではみたいが、誰も興味が無いかもしれないからどうなることか。しかし、こういうところから日本人の信仰、日本人の生き方というものを積み上げていかなければ、如何にしても砂上の楼閣にしかならないと思うのだが、どうだろうか。

宗教とはなにか

最近エホバだなんだと喧しいが、テレビやネットに溢れる『宗教批判』の中に、私は真面目なものも、なるほどと思えるものにも、ただの一つも出くわしたことはない。どれをとっても、およそ真剣に宗教と向き合ったことのないものが、『太陽は暑いからぶっこわせ』と言っている程度のものに過ぎない。あんなものは批判と呼べる代物ではない。

(断っておくと、仮に所謂宗教二世が生まれてのち文字通り地獄の様な幼少期を過ごした末の『宗教批判』であっても、そんなものはそれだけで批判に値するとは限らない。同情こそすれ、人は火に焼かれたものが幾ら訴えたとて、火の使用の停止には同意しない。)

 

それはともかく、表現者クライテリオンの12🈷発売号に宗教に関係する話を書いた。内容は発売されたものを読んでもらえばよいが、正直いって、『エホバはとんでもないやつらだ!』といって騒いでる者に何を言っても通じない気もしている。(これも断っておくと、私は特定の宗教団体に肩入れする理由も由来もない。エホバが良心的な団体だというつもりもない(悪の教団というつもりもない。要するに関係がない。))

 

それもまたともかく、宗教とはなんだと問われれば、私は『人間の真面目さ』だと答える。宗教が真面目なものになっていなければ、それは人間が不真面目なだけである。

 

そして宗教という存在を欠いて人が真面目さを持ち寄れないということ、維持し、規律してゆけないということは、いみじくも我が日本の無宗教市民が証明してくれているのである。

(繰り返し言うのも馬鹿らしいが、私はいかなる宗教団体にも属さず、また関係する者もいない)