小幡敏の日記

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やまゆり園

本日被告の植松某に死刑判決が下されたとのことである。

これ自体は当然のことであるし、速やかに執行されて然るべきだとも思う。

だが、裁判所判断を読むにつけ、果たして世間はこの事件を正当に受けとめているのか若干心許ない。

 

裁判所は被告が重度障害者が人間扱いされていない様子などから重度障害者を不幸であり、周囲にも不幸をもたらす存在として、これらの人々は生き長らえるべきではなく、その世話のための金は世界平和に使われるべきと考えるに至る過程を述べ、「到底是認できるものではない」と断ずる。

 

私はなにも被告に同情するものでなければ、その意見に同意することもないけれども、これを単に「是認できない」とするので足りるならば、裁判官など実に楽な仕事だと思う。

 

一体、重度障害者を社会が面倒を見ることは国民総意のうちに支えられたものであるのか。

生命至上主義蔓延る現代日本は、もはや生存のための選択行為全般を放擲しているため、その判断から逃げているだけではないのか。

 

生きる価値のない命などない、そう人は言う。だが、新生児の出生前診断はおおっぴらに行われ、ダウン症の「恐れがある」という可能性だけに基づき、九割を越える親が堕胎を選択していることはどう理解するのか。

 

私は彼ら不幸な親たちを責める気はさらさらないが、まさにここには障害者の存在が我々に突きつける問題が露出している。

 

私にとって障害者はなんであるか。一番はじめの記憶は、四歳か五歳のころ、母親と百貨店の食堂で重度障害者の団体と出くわした時のものだ。

 

私はそこでビフテキを食べるのを楽しみにしていたが、はす向かいに陣取ったその障害者たちは、私にとって単に恐ろしく、不快で、誤解をおそれずに言えば醜いものでしかなかった。

 

口に運ばれたオムライスの大半をこぼれ落とし、咀嚼しながら食べ物が外に押し出されてくる様は、私の食欲を奪うのには十分であったし、その一日を沈んだ気持ちで過ごしたのも無理もない。母は気落ちしている私を心配していたが、訳を話さない私に次第に苛立つ様子は、私に更なる不愉快をもたらしたことを鮮明に覚えている。

 

私は爾来障害者というものが苦手である。殺してよいとは勿論言わないが、敢えて交わろうとも思わない。

 

だが、私はひどい人間なのか。薄情ものなのか。

 

少なくとも私はこのことをもってそう判断されることには納得がいかない。

 

たとえば、旧来社会で小さな集落に斯様な障害者が生まれ落ちたなら、十中八九が養育を諦めるのだろう。それは致し方ない、健常者も生活がやっとなのであるし、障害者を抱えて生きられるほどの余裕はどこにもなかったのだから。

 

だが、それが現代において保護されていることは、単に福祉の向上として文明の勝利と見なされるべきであるのか。

 

少なくとも生産活動において健常者に完全に依存していることは確かである。そして、精神交流という面でも、健常者のほぼ全てと完全に寸断されているといってよい。

 

すなわち、現時点で彼らは永遠の生活保護者としてしか位置づけられていない。

 

これでは、とてもじゃないが健全とはいえまい。殺すのに忍びない、そういう理由で生かされているとしか思えない。私はそんなことならば植松某の言い分が俄然説得力をもってしまうのではないかと思う。

 

言わば、彼の虚栄心や人格的欠陥に目をつぶれば、彼の主張を前に、我々現代文明人の偽善はきわめて脆いということだ。

 

それゆえに世間は彼の異常性を強調し、事件の闇から目を背けるのではないか。私に言わせれば、皆障害者を見たくないのだ。その後ろめたさがかれらに社会保障費を供出させ、倫理的葛藤からの解放に使われている。

 

繰り返すが私は植松死刑囚の肩を持つ気は毛頭ない。だが、私は我々とて潔白な傍観者として植松を絞首台に送っているだけでよいのか、と言いたいだけだ。

 

障害者を「障がい者」などと表記してお茶を濁すような精神退行こそがもっとも忌まわしい。この社会の中に障害者の居場所を与える、そういうことが出来なければ、私たちは何時でも植松に成りうるのだということを自覚せねばならない。

 

かつてめくらは按摩などとして世間に居場所をもっていた。ミゼットプロレスだって、見世物小屋だって、私はそれらを好まないけれども、それに比べて現代の「敬して遠ざける」式の障害者福祉がより健全でより幸福な在り方だとは微塵も思わない。

 

植松が死ぬのは良い、しかしながら、やつを糾弾することが現代日本人の欺瞞からの逃避に利用されてはならない。

 

思えば、健康とは無関係に寿命をただひたすら伸ばし、国際政治とは無関係に平和憲法にしがみつき、人の生活とは無関係に改革を断行することなどは、まさしくこの事件と暗渠で繋がっているのだ。どれもみな、臆病ものの日本人が価値判断から逃げ出した結果の前進主義だ、帝国陸軍も真っ青の果敢さである。

 

人は生存と格闘しなければならない、それが拡大され、希釈された現代文明社会の中で見失われてはいまいか。今一度このあたりまえの事実に立ち返らねばならないことを、この陰惨で不愉快な事件は突きつけているのである。