小幡敏の日記

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世の中味気ないものに

私はカメラが好きで、今はM5とF3を主に使っておりますが、最近のカメラ業界の凋落というのは著しく、ニコン・キャノン・ソニーオリンパスペンタックスと、世界市場において二輪車以上に存在感を示すカメラ大国である日本においても各メーカーはジリ貧の戦いを強いられておるようです。

 

これについては、それもこれもスマートフォンの普及のせいだ、といった指摘ばかりが目に付きます。

その趣旨は大雑把にいって、

1.スマートフォンに搭載されるカメラの機能向上により専門機能しかもたないカメラの必要性が低下した

2.SNS利用の利便性からしスマートフォンによる撮影に勝る意義を特化型カメラが提供できない 

という二点に集約されるようです。

それはそうなんでしょう。しかしながら、私はこういうことだけではどうも納得がいかない。

私はむしろ写真をとるという行為そのものが劣化ないし矮小化したことがカメラ衰退の元凶だと思っています。

それは、次の二点です。

1.対象物の劣化

2.一回性の消失

 

一点目はわかりやすい話で、どうにもこうにも、とりたくなるようなものがないんです。これは写真をやる人なら誰でもわかるのではないでしょうか。それは、南こうせつが「汽車で上京するとか、もう田舎へ帰れないとか、とにかく歌詞に載せられるような時代の要素が消えてしまって、もう歌が作れない」という趣旨のことを言っていたことを意味します。

世の中の事物がとにかくつまらなく、味気なくなっている。どこをみても同じであるし、それは人の生活と乖離しているからこそ醜く、経年は味わいを生まず、素っ気ない風景は我々に何の感情も喚起しません。ここでいう乖離とは、必要からの切断でなく、土地や使用者からの離隔、という意味です。

私は写真をとるにあたり「消えゆくもの、今撮らねば子の代には失われてしまうもの」というものを好んできました。

ですが、それも急速に失われ、もはやカメラを持って1日散策しても一度もシャッターを切らないということが少なくない。これではもうカメラなどいらないというのも残念ながら否定できません。

 

そして二点目ですが、写真に対して人はやはり瞬間の保存を目指しています。家族写真などはその典型でしょう。それは水を支えるような努力であるからこそ、厳粛な緊張すら求めるものであり、そうであるからこそ、カメラというものはやはり良いカメラで、ということにもなります。

ところが、そんな一回限り、という緊張感はもはや霧散しつつあります。それはカメラの技術向上、すなわちデジタルカメラの普及(フィルムの完全な駆逐)も助けました。私たちにとって写真をとる行為はもはや居住まいを正すようなものではありません。

加えて、先の見通しのたつ現代においては、まさに今この瞬間を愛おしむ気持ちがかえって希薄になります。まず間違いなく育ってゆく子供の節目はただの結節でしかなく、長い寿命と安定した社会は今ここに被写体と撮影者とが共に時と場所とを分かち合っているかけがえのなさを奪いさりました。

 

以上のことからカメラというのは衰退したのだと思っています。

そしてこれはなにもカメラに限った話ではない。人間の生活というものがもはや味わうべきものでも、愛おしみ、分かち合うべきものでもなくなっている、ということです。

 

これは深刻な状態であるでしょう。もはや我々の社会は文化的にも精神的にも完全に不毛なものになりつつある。そして、ほとんどの人間はそれに見てみぬふりをするうちに、完全に白痴になってしまった。

飛躍かもしれませんが、現代の改革への熱狂(新自由主義)と現状への盲従(民主主義や平和主義)というものは、どちらも表裏一体であり、我々の不毛社会への苛立ちと焦りの表れであろうと思います。

 

最近はフィルムも随分高くなりました。いつこの供給がとまるやもしれません。そしてこのフィルムが完全に生産をやめるとき、それは現代社会が行き着くところまで来てしまった、すなわち、味わうべき情趣もなければ惜しむべき一回性もない、完全な不毛へと陥没したことを意味するのではないでしょうか。