小幡敏の日記

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政治改革を求む

まず断っておきたいのは、私は民主主義政体自体をさして大事にしていない。そして、今現在不偏不党といってよい立場にある。

 

それでもなお当面のこととして、やはりこの国の政治は変えていく必要がある。

 

この国の世論というのは常に自民党への接近と離別という形で右往左往してきた。自民党以外に支持が集まる場合、それは往々にして自民党への不信や疑念ということしか意味していない。

 

かつて民主党が躍進した際、その原動力は民主党にあったわけではなく、単に自民党不支持という力が勝ったにすぎない。

 

それはここ半世紀の間に身についた習性であり、容易に脱却できるものでもあるまい。コロナ騒ぎは思いの外下がらぬ内閣支持率以上に自民党に対する失望や顰蹙を生んでいるが、これに対応して吉村や小池に支持が集まる様は、こうした事情を示している。吉村も小池も、ただ地方自治体として動いているに過ぎず、それは政府に比して果断に実行しうるのは自明であるにも関わらず、国民は彼らを頼れるリーダーに祭り上げる。

 

断っておくが、私は別段政府を支持したいわけではない。そうではなく、国民の内に正当な政府批判もなければ、野党支持もないのだということが言いたい。(そういえばたまたま見かけたデーブスペクターのみが、地方自治体の首長と政府の指導者を同列に比較してはいけないと言っていた。やることが違うのだからと。あいつはもはや日本人なのではないかというのは置いておけば、やはりこういう当たり前の感覚は異人さんのほうが普通に備えていることが多い)

 

むしろなすべきは自民党に依存しない形での政治改革である。具体的に言えば、完全に清冽な新しい政治団体ないし政党が立ち上げられねばならない。

 

とこれが、これは今まさに述べたことと相反するが、やはり自民党というものは活かさねばならない。こうまで深く国民の政治判断に結びついた自民党を切り捨てた運動は、その命を永く保ち得ないからである。

 

いわば、美しい牡丹が芍薬を台木とするように、新たな保守政治は自民党を台木として出立しなければならない。

 

この際注意すべきは、牡丹は台木から栄養は得ても、その花は全て牡丹であるということである。キメラになってはならない。すなわち、新政治勢力自民党と明確に決別しつつ(それこそがなれ合いや癒着、談合、一体化を防ぎつつ、協同することを可能にする)、自民党がこの国に張った根を活用しなければならない。

 

そしてそれは、自民党への敬意も当然に要求する上、必ずしも自民党の駆逐を目指すというものでもないのである。いわば、長年政権にあったがゆえに血の巡りが悪くなった老体をいたわりながら、その手を引くものとして保守の真の向上を目指すものでなければならない。

 

改革はしばしば過激なものとなりがちであるし、それが大きなうねりを生み出すきっかけになることもある。しかしながら、その改革が地に足のついた実効性かつ持続性あるものとなるためには、自民党とともに歩むものでなければ日本においてはなし得ないと思う。そしてそれが出来れば、自民党はその本来の綱領に立ち返り、この国のために有益な組織へと変わっていく道もまた、開かれるのではないか。それが成し得たならば、新勢力などもはや用済みといってよいのかもしれない。

 

私はそれに足る政治勢力の出現を強く願う。