小幡敏の日記

評論を書いております。ご連絡はobata.tr6★gmail.comまで。(☆を@に))

疫病騒動に自衛隊派遣要請

学歴詐称の厚化粧女が自衛隊派遣要請を出した。

 

哀れな自衛隊、すっかり便利屋が板に付いてきたものだ。

 

まあ軍隊というのはどの国でも緊急事態に駆り出されることはある。だが、日本ではどこかやはり腑に落ちないところがあるのはなぜだろうか。

 

それはやはり、自衛隊と国民の関係が奇形であるからだろう。自衛隊が国民と円満でいられるのはこの災害派遣を通してだけなのである。

 

そもそも、自衛隊がまがりなりにも市民権を得たのは阪神淡路大震災以降、数多くの災害派遣を通じて国民の僕となって汗水たらしてきたからなのだから、これは当然である。

 

そのお陰で自衛隊を好意的に見る、いわば支持率は九割を越え、これには隔世の感があるといってよい。

 

だが、これは単に「役に立つ」からこその支持率だからであり、それは奥さま方の携帯の電話帳に連絡先として加えて頂いた程度の支持であることを忘れてもらっては困る。

 

この「役に立つ」というのが厄介なのだ。役に立つ役に立つ、世間はこればかり追い求める。英語は役に立つから、この資格は役に立つから、あるいは逆様に、文学など役に立たないから、古典や歴史は役に立たないから、基礎研究は金にならないから、などなど。こんな低級な基準を振り回してなんの恥ずかしげもないのだから恐れ入る。

 

この際いわせてもらえば、実用性などというの話は水洗便所くらいで十分であり、そんなものを人生の指針にもってきてはならない。その時々の人間や社会にとって役に立つものだけでよいのであれば、人間などかあちゃんのおっぱいとオムツ以外に必要ないといって死ぬまでバブバブしてることになる。

 

役に立つ立たないというところでうろうろしているのは精神の退行である。こんなものを軍隊の評価基準にしては断じてならない。

 

そもそも、自衛隊ないし軍隊は支持したり好意的にみたりするものではない。それはただ国家国民の生きる努力の表れであるのだから、その組織がどうであれ、支持するもなにもなく、やるしかないんだ。

 

そらもちろんどの国でも軍隊が国民からどれだけ信頼されているか、そういうことは問題にはなりうる。タイでは軍政にさして反感がもたれないばかりか、国民から歓迎する向きまであるなどというのは典型的だ。

 

しかしながら、日本のそれは異常だ。自衛隊はそれに怯えきっているのだ。敵のことなどどうでもよく、国民の方だけをみて仕事をしている。強くあることより、弱く優しげであることで国民のご機嫌までとる始末だ。こんな自衛隊にしたのは国民のあの無責任で冷淡なまなざしだ。

 

私は実際に聞いた、震災時に駐屯地に避難させてもらえなかったことをもって自衛隊を無責任だの冷淡だの、国民を助ける気がないだのといってなじる連中の決して小さくない非難の声を。

 

だが、一体震災時の混乱の中でトロイの木馬をどう見分けるというのだ。あの狭苦しい自衛隊の駐屯地に大挙して押し寄せる群衆を招き入れ、どのように即応態勢を維持するというのか。俺たちの仕事は国防であることを全く理解しない国民たち、こういう例はいくらでもあるのだ。そしてそれは、まさに自衛隊が国防組織ではなく便利屋さんとしか見られていないことに起因するのである。

 

かさねていうが、軍隊など、国家国民にとっては運命共同体であり、支持したり、納得したり、怯えたり、判断したり、批判したりするものではない。

 

そんなことをしている内は、自衛隊は決して実効的な国防組織となることはない。災害派遣などで役に立ってしまうと、そういう深刻な亀裂が見えなくなってしまうから危険なのである。役に立つとは、実に実に危ういことである。役に立つことを優先するとは、人間理性の万能を叫ぶことであり、未来の予測可能を信じることであり、人間の生の味わいを殺すことである。

 

であるからして、これに対抗するには、役に立たないことに拘泥しながら現実にも処していくしかなかろう。滑ったり転んだりしながら歩くこと、人間理性にはそういう生き方しか出来ないのである。