小幡敏の日記

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厚化粧大年増と学歴詐称

卒業証書を出したということです。

 

言うまでもなく僕はあの節操のない婆さんが嫌いですが、これに関してはやっこさんの完勝といってよいでしょう。

 

問題の核心は、それが詐称であったかにあるわけですが、大多数の国民にとって、それは「学歴なんかどうでもいい、人は学歴で判断すべきではない」というピント外れの擁護を前に、さして重要とはみなされません。

 

むしろこの国は恐ろしいほどに学歴コンプレックスを抱えた人間が多いですから、小池がどうのということの前に、学歴を問題とすること自体がある種の下策なわけです。

 

こういう状況では、

「小池が学歴でたたかれている」

「学歴などに拘る連中が頑張る都知事の足を引っ張っている!」

に取って代わられます。

 

要するに、婆さんが首席という虚言を吐こうが、卒業したことが疑わしかろうが(言われているようなことだと、その著書の記述に四年で卒業したことと矛盾するものがある等)、そんなことはどうでもよく、学歴を問題にすること自体が悪しき学歴主義だ、ということになります。

 

してみれば、婆さんが嘘つきであるかどうかが問題であったことなど、もはやすっかり忘れられているといってよい。ですが、そんなことはわかりきっております。国民の大多数は学歴にふれてほしくないのです。

 

とはいえ、小池はともかく、こういう学歴に対する忌避はあまり、望ましくない。「東大卒が優秀とは限らない」ということはどこでも耳にしますが、別に私は学歴などどうでもよいし、東大出身者がいかにくず揃いかもイヤというほど知った上でなお、東大くらい出ていてもよいとも思うわけです。

 

こういたうことはなかなか言いにくいですが、あえて申せば東大の入試など、別にさほど難しいものでもない。これは家庭の経済状況など関係なく、ある程度の才覚と努力があれば突破できるもので、天才や特別な訓練を要するものではない。

 

そして、こういう時代ですから、ほとんどのものはこの競争に参加しておきながら、そこに至らず、政治家になっているわけです。

 

そういう意味では、私は彼らに国の舵取りを担う資格などないのではないかと思う。

 

東大程度にも届かぬことは、国の領導者にとって問題であろうと、そう思います。(それゆえ、私は中卒で政治家になるような者がいればむしろ大いに有望であろうと思います)

 

しつこいようですが、僕は東大だったら良いといっているわけではない。だが、東大くらいは基礎条件で、その上に人格徳性あるものを政治家に据えろ、そういう人間が確保できないのであれば、それは東大の欠陥ではなく日本国民全体のうちに適当な政治家を生みだすだけの力がなかったと、そういうことではないかということです。

 

もちろん、政治家といっても色々ですから、全員東大や旧帝大をでておけ、というわけではありません。ただ、学歴など関係ないと言われてしまうと、いや、そうではないでしょう、むしろ本気で国や国民に尽くしたいのであれば学生時分から相応の努力を傾けておかねばならず、そしてそれがある程度以上の水準に達していないものは、努力がたりないか、あるいはそもそも社会を導くだけの能力を欠いているのではないかと、そういうことが言いたいのです。

 

まぁ、ひとつだけ言えるのは、東大にいたやつは右も左も我が身かわいいのくず野郎どもか新自由主義的な過剰適応者の群れであり、とてもではないが政治家などにしてはならない人間だったということです。そしてそれは、残念ながらこの国全体の傾向であり、責められるべきは国民であるという絶望的な状況を示しているといってよいでしょう。