小幡敏の日記

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日本を思うなら日本人を憎め

私はことあるごとに日本人を悪し様に罵るため、幾らかの人に反問されることもある。そしてそれは言論の場をみていてもわかることで、例えば故西部進氏が『ジャップ』といえば、『元左翼の本性が出た』などと反発する者が結構あった。

 

それは程度の差こそあれ、いまでもどこにでもある。日本人が劣化したといったり、国民が不道徳だ、馬鹿だといえば、とたんに不機嫌になり、『たしかに政治家や官僚は腐っているが、市井の日本人はそんなことはない』などとむきになって反論するものが予想外に多い。

 

確かに、戦後の所謂自虐的な在り方への反省反動から、このように言いたくなる気持ちもわからんではない。私も純粋な右翼少年だった時分なら、或いはその様に応じたかもしれない(戸惑うくらいの分別はあったと思うものの)。

 

だが、少なくとも事実に誠実であろうとするなら、いつまでも右翼少年でいることもできまい。たとえば日本軍はえらかったなどといってみても、他国民に暴虐の限りをつくした兵隊もあったし、その腐敗した組織体質が日本文化の一部であったことも否定し得ない事実として向き合わざるを得ないからだ。

 

そうした躓きを前に、あるものは転向して左翼ないし中道に向かうだろうし、あるものは『そんなものはみな捏造だ!』と息巻くだろう。

 

私はといえば、そういう判断は一時保留し、果たして日本人ないし日本文化というものがどれだけ信頼に足るのか、あるいはどれだけみるべきものがあるのか、それを確かめるための道に入ったのである。

 

とはいえ、私にはその結果がいかなるものであっても自分が日本人であり、その向上につとめるしかないのだというある種の使命感が生来備わっていたから、比較的落ち着いてこの探求に努めてきたような気がしている。

 

そうはいっても現在もこの作業は続いているが、暫定的な印象でいえば、やはりこの国の国民は少なくとも社会性、とりわけ政治性に関して著しく劣等であるし、その文化教養についても近代以降、限りなく零に等しいとさえ感じている。

 

こうなると些か苦しい。私はあくまでこの国の一員であるし、この国のために働きたいが、当の構成員は極めて劣悪である。公徳心は世間で言われているほど高くない、いや、潜在的にはこれもまた零に近い。

 

私は中学からいわゆるエリートに囲まれて育ったが、エリートの中にまともな人間など零だ。国のためを思う人間に私は出会ったことがない。女と金のことにしか興味がないやつばかりだった。

 

だが、エリートでなくともその事情はさしてかわらないと思っている。たしかに、実感として朗らかで愛すべき者は非エリートの中により多く見いだすことはできる。だが、それも限られていて、とてもじゃないが楽観的にはなれない。

 

それゆえ、日本人がろくでもないんだ、ということについてはなんの躊躇いもないといってよい。

 

かといって、日本人をただ憎悪しているかというとそうでもない。しかしながら、辛うじて維持しているその信頼は、ほとんどが過去の日本人か、記憶の中の日本人であることもまた事実だ。

 

だから私は口をきわめて日本人を罵ることもある。だが、その時私は別に私を日本人の外に置いているわけでもなければ、妙な選民意識ないし優越を振りかざしているわけでもない。ただ自分の生家の零落をやるせなさから呪っているだけだ。

 

私はこれの再興を否応なしに願っている。その途上で我らの醜さを憎み、呪詛することもあるだろう。私はこれから目を背け、体裁だけ取り繕って垣などばかり立派に巡らそうとする愛国者たちと共に生きる気など毛頭ない。醜男に生まれたものは、それと付き合って生きるしかないではないか。髪をいじったり化粧をしたりする阿呆とは口も聞きたくない。

 

私はいつでも、我々民族の悲哀から歩き出す、寡黙で誠実な人間とともに夢を暖めたいと念願している。絶望する勇気もない者に何をか期待せん。あらゆる楽観は絶望に根を持つ。絶望なき楽観があるとすれば、それは旅先の恋心のようなもの、明日には消えるものと予め了解しておかねばならないだろう。