小幡敏の日記

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本を読まない人間

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この国語改革が愚かな愚民化政策であることは今更繰り返すまでもないが、文中、一点気になる記述がある。

 

簡単に言えば、文学評論に親しむ教養層と疎外される非教養層に二分化されるという点であるが、必ずしもそういうことは言えないのではないか。

 

それは極めて単純な話で、言ってしまえば現在の国語教育とて教養の普及にはなんら力を持っていないのが実状ではないか。

 

それは国民の全階層に共通の現象であり、もはや大多数の学生は文学評論などになんらの興味ももたないばかりかそれを読む姿勢も能力もない。

 

これは当たり前の話で、文学というのは我々の成長にあって躓いて反省を促すものであり、そんな厄介なものは今時流行らない。かつてはそれを形式的にでもしていないと馬鹿にされたから見栄っぱりどもが無理をして文学を一度は訪ねるのが礼式であったに過ぎず、その点で文学というものが一般に正しく受容されていないのは今も昔も変わらない。

 

とはいえ、そんなものは捨てちまえというわけにもいかない。文学は常に我々の行き過ぎや文化的貧困、視野狭窄をだ通する唯一の原動力になるものであるから、これを絶やしてはならない。

そして、この教育とは選ばれた人間をその入り口に誘うということでしかない。

 

その証拠に、私は所謂エリート層に囲まれて育ったが、彼らの中に文学を解する人間などほぼ皆無といってよい。

彼らは文学など興味をもたないのは当然、読ませたところでまるで理解もできなければ、向き合う能力すらないのである。

 

それもそのはず、そんな事情だからこそ彼らは文学など不要と考え、大学改革を始め、文学の軽視を進めたのであり、それがこの愚かな国語教育改革に結実しているのである。

 

簡単にいえば、文学がわからない馬鹿が悔しくて文学追放に動いたということである。

まったく卑しい人間というのはわかりやすくこういう一揆を行うからこまる。

 

だから何をすべきかというと、こういう馬鹿というのは卑しん坊だから、彼らに文学をすこしくらいかじらねば恥ずかしいのだと思わせるしかない。そうすれば見栄っぱりで虚栄心の強い彼らのことだから、文学をエリートの条件にまで高めるに違いない。

 

下らないことだが、こういうことをしてやらねば日本のエリートはまともな結論に至ることができないのだから仕方がない。