小幡敏の日記

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読者からの手紙

僕の所にもメールや手紙で稀に読者から便りが届くことがある。

 

それ自体は有り難いことで、僕など仲間探しの為に書いているようなものあまから、これは多ければ多いほど励みになる。

 

ただ、昨日受け取った手紙、これはいただけなかった。

 

差出人は匿名で、元一等陸佐、齢80を越すとある。仮に名無しの権兵衛氏としておこう。

この権兵衛氏、まずもって何故名乗らないかがわからない。内容を見ても、名乗ってはならない理由は見当たらない。いや、あるのかもしれないが、僕は人間同士のやりとりの中に、匿名でなければならないものなどほとんどないと思っている。名乗らないのは投書であって、少なくとも手紙ではない。どんなに気恥ずかしい思い出尻込みしながら書くものとはいえ、恋文に名前を書かねばそれは手紙にはなり得ない。恋文でなくたってその事情は変わるまい。もっとも、今回の場合はワープロで印字されていたからそもそも手紙の体裁すらとっていないといわれればそれまでだが。

 

それはそうと、内容もよくわからない。もらった手紙をとやかく言うものではないが、僕も毎日意気軒昂に生きているわけでなし、気が滅入る手紙を好んでもらいたいわけではない。

 

なんといっても、手紙の内容がそもそも相手の存在を想定していない。ほとんど日記と変わらぬ内容である。先方からすれば僕は顔も分かれば考えもある程度分かったつもりなのかもしれないが、僕からすれば顔も『名前も』知らない、どこの馬の骨とも知れぬ老人である。それが本の内容そこそこに自分の個人的な不満や鬱憤を、何故か遠まわしな僕への嫌みを交えて語る。いったい何故私は見ず知らずの御仁の身の上話を、ちくりちくりと嫌みを言われなければ聞かねばならないのか。

 

嫌みよりやや直接的な批判もないではない、しかしながら、それは申し訳ないが単に誤解というか誤読であって、僕はそんなことは言っていないし、言っているとしても、そこに重点など置いていない。ピアノ奏者を批判するならその演奏を難ずるべきであり、立ち振る舞いやピアノの歴史に対する不勉強をあげつらったところで、本人はさして気にもとめないはずだ。(今回の投書では、『米軍のmy soldiersという表現は賞賛するのに、出席は学番で呼ぶのを是とするのか』云々とあったが、はっきりいってそんなことはどうでもよいし、そもそも僕は米軍のそれを賞賛した覚えはない。米軍の在り方はそれが可能だといったまでで、自衛隊もそれを目指せなどという気は毛頭ない。だいたい、僕は米軍を一つの知り得た普通の軍隊として言及しているのであって、賞賛したつもりはどこにもない。自衛隊がおかしいのであって、米軍が素晴らしいわけではない。)

 

それと、御自身が受験に苦労した経験を語られたあと、わりかし脈絡なく『東大出もピンキリ』と述べるが、それを僕に言うのはどうかと思う。(この類いはわりに多いが)

 

僕は確かに折に触れ学歴を軽視したようなことを言うし、東大なんぞ、といったことも言うが、だからといって学歴に振り回されている者からその慰み物にされるいわれはない。

 

たとえば、東京出身者が『東京なんぞ田舎者の寄せ集めだから』と言うのは自由だが、それをよその者が当人に『東京人なんて田舎ものだ』と言っていいことにはならない。あいの子が『私など雑種だからどっちつかずの半端ものだ』とは言い得ても、我々が彼らに対して『あいの子は日本人に成りきれない人種ですな』とはなかなか言えないはずだ。

 

普通はそういう了見があると思うのだが、それはこちらのわがままなのか。僕はもちろん東大を出ていることを重視はしていないが、見ず知らずの、それもやたらと学歴を気にする者から唐突に腐されるのには不快を感ずる。

 

80を越える男一匹が、わざわざ30にようやく届いた青二才相手に書く手紙がこれでは、僕はどうにも納得がゆかないのだ。

 

説教でも激励でもなんでも歓迎だが、管をまくのはごめん蒙る。

 

御笑覧くだされとあったが、済まない、僕は人の日記を御笑覧する趣味も余裕もない。

 

なぜって僕は仲間をまっているんだ。手紙がくれば、僕はすべて『心して』読んでいる。『心して』書かれていない手紙に落胆する自由くらい認めてくれたっていいではないか。