小幡敏の日記

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下を向いて歩こうの日本人

芸能事務所のスキャンダルで世間は騒がしいようですが、僕は特段興味はありません。

 

アイドル文化など滅びてしまえばよろしいと物心ついた頃から思っているし(そうは言っても南沙織キャンディーズが好きな時期はありましたが)、こんな歪んだ不健全な文化の総本山に、醜悪で不道徳な妖怪じみた爺さんが棲んでいたといったって、なにも不思議はない。

 

その山に子を登らせた親が間抜けなんだし、そこにお布施をして手を合わせていた連中が自らの不徳を恥じればいいんだ。

 

それはそうと、僕は『被害者』だって、その立場と影響力に応じて責められて然るべきだと思うし、一定の白眼視には耐えるべきだと思う。

 

それをセカンドレイプだと言ってみたり、『なぜ被害者が責められなければならないのか』などというのは、てめえが不正義や悪に立ち向かう勇気がなく、またそれを認めて反省するだけの覚悟も誠意もないが故に、『みんなで弱くなろう、みんなで悪に膝を折ろう』と言っているのと同じではないか。

 

そういう連中は、悪魔と平気で取引するのだろう。そしてそういう手合が、しょうがないじゃないか、仕方がないじゃないかといって悪を育て、取り返しの付かない破滅を招いてきたのではないか。

 

一芸能事務所のことなどどうでもいいが、これが戦争だったらどうなのだ。ひとりひとりの『しょうがない』が日本の敗北を常に生じさせてきたことの反省はいったいどこにあるのか。

 

今回のことについては、『私たちのなかに、会社の不正に目をつぶらないでいられるものがどれだけいるのか。被害者を責めてはならない』と言っているものがあったが、そんな馬鹿な話があるものか。被害を訴えた人間はいるじゃないか、きっと沢山のものを捨てて事務所を去ったものだっているはずだ。偉かったのはその人らであって、黙って悪に馴染んでいったものや、悪に打ちひしがられていたものではない。被害者が悪人だというつもりはないが、声を上げた人間を彼らの上におくことが忘れられちゃいけない。みんな弱い存在だから、というのは、弱者天国の日本では天下御免金科玉条だが、それを許していては、人は容易に悪になびく。そして世の中は腐敗する。

 

もっとわかりよい例をあげれば、街で子供を連れている時にチンピラに絡まれたとする。チンピラに蹴倒されて土下座させられている父親は被害者だしちっとも悪くないかもしれないが、子供に対して恥じるべきではあるし、周りもそう見てしかるべきではないのか。そして、周りの人間は、あの人は被害者だから仕方ないなどと無意味な同情を向けるのではなく、みっともないやつだ、と思うか、あるいは加勢すべきではないのか。

 

別に自慢したいわけじゃないが、僕だって自衛隊がこのままじゃいけないと思って辞めるのは、何も愉快で平坦なことだったわけじゃない。その後1年弱、妻子を抱えて無職で通すのは、気楽だったわけでもない。

 

しかし、なにより虚しかったのは、そうやって勇気を出しても、みんながみんなして、僕を異端視して見ぬふりをしたことだよ。

いっさい連帯を示さなかったことだよ。

 

それで思ったのは、日本人は勇気が足りないんじゃない、そもそも不正を許さぬ情熱自体が欠けているんだということだ。もっといえば、手前味噌にもなるが、勇気を見せたやつが目障りなんだなと、そう思った。なぜなら、以前は自衛隊の不満ばかり言って、僕にも同調していたやつが、いざ僕が自衛隊を出るとなったら、どうにも居たたまれないように距離を置き始めたからだ。まったく情けない連中だと思った、それなら自衛隊がおかしいなどと二度と言ってくれるな。

 

今僕は満洲国の総務長官だった人の自伝を読んでいるが、戦後北関東に隠棲していた彼のところに占領軍の特務機関員が訪ねてくる。

中国人が大規模なデモをするらしいが、警察は放心状態で役に立たない、シナ語もわかるあなたが間に立ってくれと依頼される。

デモを計画しているグループの頭領に会うと、先方はこちらを知っており、なんだあなたですか、安心してください、決して困らせるようなことにはなりませんという。

 

デモの中で彼が雄弁に語ったのは、アジアの仲間である中日両国人が白人の前で相争い、馬鹿げた戦争をしたことはまったく東洋にとって無益であった。これからは両国民手を相携えて発展に努力しようというものであったが、腑抜けてしまった日本人たちは、それを聞きながらポカンとして、拍手をするものもなければ、賛同の声をあげるものもいない、といって何かを反省したり恥じているわけでもない。ただ無気力に、どこか他人事のように眺めているだけであった。

 

我々日本人はいまもその放心の中にある。あらゆる価値判断を放擲した白痴の群れに光を取り戻すのは容易なことではない。

 

少しでもこれに抗うのであれば、ただ理非正邪をはっきりさせてゆくだけだ。悪いものを悪いといい、いかに大きな悪にも臆さず立ち向かう。その勇気がない者は、前を歩く者の背を押せ。そうして一歩一歩変えてゆかねば、この国とこの国民は、永久にぽかんと口をあけて生きてゆく他はない。