小幡敏の日記

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リベラルは信用ならない

私が所謂保守的な態度をとるようになったのは、むしろ反左翼的な動機が強かったのではないかと思います。

 

私は生来群れることを好まないし、自由に生きたい方ですから、それも当然かもしれない。

 

それがなぜこんなことになったか。

 

それは左翼やリベラル的な雰囲気の中に明らかな偽善や欺瞞が目に付いたからです。

 

例えば、個性を重視しようなど皆お題目を唱えますが、そんなものは誰も認めようとすらしていないことなど、人に優れた個性が少しでもあるものなら誰だって嫌と言うほど経験してきている。そう言うご当人からいかに嫉妬や憎悪を受け、理不尽な迫害を受けるか。私とてうんざりするほどでした。頼むから放っておいてくれ、そういう消極的な自由さえ、決して認められることはないのがこの国の、自由を愛好する国民的たちの真意です。

 

そういう中を生きる人間にとって、「個性を大事にしよう」などいっている者を信用することは不可能です。

いつか寝首をかかれるとしか思えません。

 

そして、今でも覚えているのは、中学の時の左翼教師が、日頃リベラル的言辞を弄するくせに、大正天皇の遠眼鏡事件を持ち出してこれを嗤ったことです。

 

あの嬉しそうなにやけ顔をみたら、あんな奴らを信用出来るわけがない。ダブルスタンダードもいいとこです。

 

私にとってこれは一人の男の例ではない、左翼にありがちな習性です。それに類することはいくらもあった。

 

だから私はリベラルを好かない。保守派が首尾一貫しないのは、それはまだいい。首尾一貫しないものが世の中にあるというところから保守は始まるのですから。悪くいえば、保守は馬鹿でもまだ許せる。素直なら多目にみるのもよいでしょう。

 

ですが、人間の理知を称揚するリベラルが明かな矛盾を恥じないのはどうしたっておかしい。知るべきは、我々が不完全な存在であるという当たり前の事実ではないのか。

 

だから私はリベラルにはくみせません。

人間がもっと立派な存在なら、或いは私もリベラルになっていたかもしれませんが。