なんとなしにトム・ハンクスのキャスト・アウェイの吹替版を観ていたところ、トム・ハンクスが同僚から、
『足の悪い子供の自転車盗んで荷物を届けたやつがよく言うぜ』
とかなんとか冷やかされ、
『盗んだんじゃない、借りただけさ。しかし、足の悪いってのは良いな』
と答えるシーンに出くわしました。
いや、これは吹替になっていないでしょう。『足の悪いってのは良いな』とはいったいなんのことか。オリジナルにあたってないのでただの決めつけですがね、ここは片輪かびっこかしらんが、がさつな言葉が入っているんでしょう。それを訳出しないでどうするの。意味のわからん会話になってしまってるじゃないの。
嫌だというならそんな映画吹替つけるのやめちまえばよいのに、そうまでしないで、こんな微温的な、というより、単なる誤訳としか言えない訳をつけて、作品にだって失礼じゃないの。
もっとも、オリジナルにあたりもしていないので、本当に『足の悪い』と言っているのであれば単なる言い掛りなんですがね。
これは悪しきポリコレの例ですが、最近は新手の言葉狩りも横行していて、基本的に難しい語彙は極力使わぬように、古くさい言い回しや、重々しい表現も避けるようになっております。
小説なんかでもひどいもんで、じいさんも若者も、おんなじ頭の構造なんかじゃないかと思うような会話をしている。かみさんが言うには、ファンタジーものなんかにもそういう波が押し寄せていて、太古の昔から生きている設定のものが現代人とおんなじ軽さで話すもんだから面食らう、といっておりました。
そういえば、かみさんが上橋菜穂子という児童文学作家が好きなんですが(僕は知らないジャンルはとことん知らないので、知りませんよ、精霊の何とかとか言われても)、彼女の婆さんは昔話がうまかったらしく、上橋さんもこれを楽しみに聞いとったそうです。
それで、よく覚えている話のなかに、『家の裏手にある土饅頭かなんかを掃除して手を合わせていたら、鎧金具の音がして平家の亡霊があらわれ、あなたたちのおかげで成仏できる』というものがあったそうです。で、彼女は幼い時分、鎧金具というのが何なのかわからないで聞いていたそうですが、それは別段気にならず、平家の侍と『よろいかなぐ』という言葉が曖昧につながったまま愉しんでいたそうです。それがいつのまにか、明瞭に知るようになる、その過程は、言葉が身についていく幸福な歩みであり、決して迂遠な回り道ではありません。
むしろ、その曖昧さと明瞭に知るまでの時間の経過が、その短い昔話を単なる聞き捨ての小咄にしなかったとさえ思える。そのゆっくりとした歩みがあったからこそ、彼女のなかで祖母との記憶がよく馴染んだと思われるくらいです。
僕とて、難しい難しいと文句を言われることもありますが、僕の使う語彙なんかたかが知れているし、虚仮威しに辞書を引き引き書いているわけでもありません。
僕自身のことでいえば、本で知らない表現や言い回しなんかに出会い、またそれが気の利いたものであると、ほうと感心し、またいずれ使いたいと思うのだから仕方がない。
そしてそういうことを誰もが継続してやっていないと、言語の生命力は次第に衰え、それはすなわち、僕らの思考力も、文化的想像力も、いや、科学における創造性さえも衰弱してゆくこと請け合いです。
そのへんのことは岡潔なんかも言っておりましたが、割愛します。
とにかく、我々が豊かに生きたければ、言葉に対してもっと真剣に、また誠実でなければならない、そう思います。