小幡敏の日記

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日本語は非論理的か

わが母校の英語教師たちがよく言っていたことに、英語の音としての心地よさと論理的な性格に惹かれて英語を学んだということがある。

 

私は洋楽を好んで聞いてきたが、別段英語が優れたリズムや音色を持っているとは思わない。ただ、それを話すものが自信に満ちて見えるのは確かだ。

 

それはともかく、英語が論理的で日本語が非論理的というのはまったく解せない。

 

よくよく聞いていれば、日本における英語は単なる受験教育の現場か、あるいは所謂ビジネスにおいてそれこそ渉外係の言語としてしか使われないのが常であるから、それが論理的に見えるのは当たり前だ。なぜなら、

それらは所詮論理的に説明し得るような程度の低い用途にしか用いられていないのだから。

 

そして、日本語が曖昧で語尾のぼやけた冗長な性格を有するとはいえ、これを用いて明晰に語ることもまた、可能である。しかしながら、問題はむしろ使い手にある。言葉が話者の思考を規定する面は否定しない、いや、むしろ強調したいが、日本人の情緒的性格、まわりくどさはそれ以前に我々固有の性質ではないか。

 

なんの根拠もなくこう述べるのは、普段人が話している言葉の、その冗漫さに腹を立てているからだ。

 

奇形の敬語、過度な迂回的表現、責任逃れのための主語の省略、そういうものまで日本語のせいにされてはたまらぬ。言語の論理性を問題にするずっと手前で、我々は少なくとも必要な限りにおいて多少は論理的にならなければならない。

 

それは間違っても、「A=B」のように語れということでもなければ、「結論から先にいう」などという言語の幼稚化ではない。

 

ただ、我々がA=BならA=Bという事実を引き受けて生きることである。その結果が、黙して喋らぬ結果になったとしても、我々は十分論理的な態度を持ち得たと言える。

 

言ってしまえば、我々が論理的でないのは日本語のせいなどではないのだ。日本語が非論理的なのではなく、日本人が非論理であるに過ぎない。