小幡敏の日記

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自衛官の靖國参拝

陸自の幹部が実質的に集団参拝をしたということでやや騒がれています。

これを当然のこととして擁護する者、また例のごとく宗教問題にして批判する者、両者あるわけですが、私として一つ言っておくことがあるとすれば、もし仮に自衛隊軍国主義復活の気配を感じている者があるとすれば、それは見当違いも甚だしい、恥ずかしいほどに現実を見誤った杞憂だということです。

 

私は断言出来ますが、少なくとも現在において、自衛隊の中に、それももっとも『野蛮』とされる陸自の中にも、軍国主義なんてものに居場所はありません。

 

それは、健全に保たれている、というのではない。単にノンポリの物質主義者達で占められているのだということであって、私などは毎年靖國にお参りしているものですから、そんなやつは『変わり者』であり、なんなら『面倒な人』で、いわば鼻つまみです。

 

これは私が身を以て経験したのだから間違いない。もちろん、たまに妙な精神家というのはいるわけですが、それはあくまでも例外的な存在です。

 

もっとも、世間の人が持つ印象とは異なり、戦前の軍隊においてもいわゆる精神主義者はある種の変人であり、敬して遠ざけられる、場合によっては今と変わらぬ鼻つまみでもあったわけですが、一度彼らが時を得ると、普段ノンポリ的であった連中はこの暴走に抗うことが出来ず、伝統とも関わりのない、自家発電的精神主義への驀進に巻き込まれていったわけです。

 

してみれば、我々はこの滅びの運動が始まらぬよう、また、始まった時に水をさせるだけの思想なり生き方を準備することで民族精神の堤を築かねばならぬわけですが、冒頭述べたような下らない議論に終始して、いっこうこれに取り組まない。

 

そんなことではまた民族廃滅の悲惨を招き寄せるだけでしょう。戦争を反省するなどということは、戦後の日本人一同がいうほど簡単なことではない。猜疑、熱狂、錯乱、強欲、小心、そうした全ての人間の弱さに抵抗する闘争の中で、血と汗を流して築かねばならないものであります。

 

そういう覚悟で一から始めなければならぬというところに、戦後八十年近く経っても、我々日本人は留まり続けている。その怠慢のツケを今年、いや、今日このときに払わされたとしても、一体誰が神を呪うことが出来るか。仏はないと言えるか。