丁度世間ではセンター試験の時期だからつまらんことを思い出したが、僕は現代文だと論説文が不得意で、センター試験レベルでさえ結構誤答があったりした。
得意なやつに言わせれば、答えなんてこれしかないだろ、ということらしいが、こちらに言わせてもらえば、こんなもんどれでもいいだろと、そういうわけだ。
そういえば坂口安吾が、『世に人はあっても人はなし』なんてつまらんことをいうなら、世間に人間は多くいるが有為の人材は少ないのだと、そう端的に言えばよいではないか、と言っていたが、僕もいつもそのように考えていた。世間の文章にはくだらないレトリックが多過ぎて読めたものではない。とても付き合ってられないと思った。修飾するならするで、もとより美しいか分かりやすいか、気が利いているか、いずれにしてもなにかしらより優れた点をもたねば道理がとおらぬが、ほとんどのそれは、単にもっともらしく、また何か深遠なことが語られているような様子を演出にしかなっておらず、そんなものはいらんと苛々させられる。
だいたい、論説文なら書き手が何かしらのものを直接伝えるために書いているのだから、それが伝わらない時点で何かが間違ってるではないかと思う。そら文章が下手なんじゃないかと。
勿論、誰でも正解してしまっては困るから、適当に小難しいものを選んでいることからすれば出題者が悪いともいえるが、僕に言わせれば、そんな回りくどい勿体振った文章を書いたやつが一番の悪党だと思う。大したことを言っていないのだから、せめてわかりやすく書きやがれと。
もっとも、文章は分かりやすさだけが全てではない。たとえ一般の読者には難解であっても、書かれた対象自体が難解であれば仕方がないのだし、美しい文章にも、味のある文章にも、また格調高い文章にも、分かりやすさを犠牲にする資格を認めてやりたい。
そこが問題の肝になっていれば一向構わないが、少なくとも僕が触れてきた現代文の問題文は、その多くが分かりづらいだけのつまらん文章だった。あの手のものは、読者を徒に困らせるだけだから足蹴にしておいたほうがいい。
そして、世の書き手には是非とも分かりやすさを重視してもらいたいと希望する。
ただ、強調したいのは、僕は読者のレベルに合わせろといいたいのではないということだ。国語の秩序と格式をより高いところに持っていきたいのであれば、不真面目で不勉強な読者のいくらかが置いてけぼりをくったって、そら必要な犠牲だと言わざるを得まい。
それが、無闇矢鱈に、内容の不足を不要な演出で埋め合わせるものでなければ、どんどんやって構わない。それでもなお分かりやすいと言える文章というものが、きっとあるのだと僕は信じる。