小幡敏の日記

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NHK特集

本日昼過ぎにNHK特集で、1980年代の中国地方(石見など)で起こっていた廃寺に関する再放送が扱われていました。

 

内容は正直どうでもいいんですが、幾つか気になることがありました。

 

一つは、「過去映像」の中の坊さんに比べ、今回の取材映像の中の坊さん(東日本被災)がまるで好ましからざる坊主であること。

 

二つ目は、「過去映像」の中に出てくる村の住民達がまことに懐かしく、そして現代では絶望的に消えつつある、ということです。

 

一つ目は本当にどうでもいいんです、坊主も落ちたもんだ、ただそれだけのことです。いや、たぶんある程度は真面目な方なんでしょう。でも、あれは仏道が生き方になってない。ハンバーガー食ってたってなんら違和感のないおじんですよ。そういう坊主は今じゃ多数派かもしれませんが、昔の田舎の坊主というのが、或いは教派仏教的には出来が悪くても、字がうまくて、篤実で謹厳な人間である、そんな信頼感というものが確かにありました。そういう坊主であったからこそ、名付けを頼んだり、村の諍いの調停を頼んだり出来たのでしょう。今の坊主じゃ、そりゃ市役所行政にお株を取られても無理はありません。宗教者というより、よほど役場の職員然としておりますから。

 

それより深刻なのは二つ目の方で、いや、たかが三十年と少しですか、それだけですが、全くそこに映る地域住民というものが素朴で愛らしい。本尊の取り扱いを巡る寄り合いなんかでのやり取りなど、誠に曖昧で茫漠としたもので、大変よろしい。皆さん信心もいい加減なくせに、実によくお経をあげたりします。そんなでたらめな善良さというものが如何にありがたいものであるか、そういうものを思い出させられました。

 

思えば、私は父方が医業を営んでおり、そちらの親族にはまるで居心地のよくなかった記憶ばかりがありますが、母方、こちらは農民みたいなもんですけど、こっちの方は全くいじきたなくって無知蒙昧なんですが、とても居心地が良かった覚えてがあります。

 

生き方が板についているんですね、炬燵への当たり方やら、お茶の注ぎ方、勝手口の雰囲気なんか、なにからなにまで、生活の匂いが漂っておりました。

 

ところが、その母方の実家もそうですし、NHK特集のなかの村落なんかもそうでしょうけど、こういう日本の風景というものがここ20年あまりで劇的に破壊されてまいりました。

 

もうああいう一億総隣人みたいな社会は決して望めないでしょう。しかし、じいさんばあさん世代との付き合いの中だけでもああいう生活に触れられた私はまだ幸せでした。あんなものを懐かしむことも、今の世間を相対化することもできますから。

 

しかしながら、私には2歳と0歳の娘がおりますけれども、彼女らがこのまま成長しても、ああいうものには一点も交わらずに大きくなるわけです。

 

それはもう、僕ら世代と娘の世代との間で仮初めの共通の故郷さえ持てないということではないか、そう思うと実に暗澹とした気分になりました。

 

彼女たちは案外悩まずに生きていくのかもしれません。しかしながら、それは果たして健康なことであるのか。

 

私は彼女たちに何を与えていくのか。古きよきあの風景を与え、現代の苦しみに向き合わせるべきか、或いは当たり前の現代をそのままに生きさせるか。それは親が介入すべき領域ではないかもしれませんが、いずれにしても、我が子が不憫だという気持ちは否定し得ません。全くひどい世の中になってしまいました、愚痴ではないですが、どうにかせねばならないでしょう。